かつての戦場だった暗い谷を進んでいたら、別の懐かしい気配が風に乗って漂ってきた
書庫を後にした一行は、白い鱗の幹部に導かれ、さらに下層へと続く細い岩割れを進んでいた。
天井は完全に見えなくなり、左右から迫る黒い岩肌が、まるで巨大な怪物の顎のようだった。
先ほどまでの耐え難い熱気は、いつの間にか、肌を刺すような冷たい風へと変わっている。
「パパ、あっちから、変な音が聞こえる」
アルスがアルダシールの大きな手をしっかりと握ったまま、闇の奥を指さした。
かすかに、地鳴りのような、あるいは何かが擦れ合うような低い音が響いている。
「気にするな。俺の後ろから離れるんじゃないぞ」
アルダシールは直刀の柄に手をかけたまま、周囲の闇に視線を走らせた。
右腕の奥にある熱は静まり返っていたが、代わりに、胸の奥が妙に切なく締め付けられるような感覚が始まっていた。
後ろを歩いていたメイファが、ふと足を止め、夫の背中に視線を投げかけた。
「……ねえ、あなた」
「どうした、メイファ。足が痛むか?」
アルダシールが振り返る。
「ううん、そうじゃないの。……さっき、あなたが言った『あの人の名前』が、ずっと胸に残っていて」
メイファの細い眉が、不安げに揺れていた。
「私、あなたの妻になって、アルスを産んで、ずっと一緒に暮らしてきた。でも……あなたの魂の一番深い場所には、私が触れられない別の誰かがいるのね」
アルダシールは言葉に詰まった。
不器用な彼には、こういうときに妻を安心させる気の利いた台詞は思い浮かばない。
彼は少しの間、自分の大きな掌を見つめ、それから静かに口を開いた。
「嘘は言いたくない。あの名前を口にしたとき、自分でも驚くほど、体の奥が激しく揺さぶられたんだ。まるで、何百年も前にどこかで約束を交わした相手を、今でも探し続けているような……そんな、逃れられない何かだ」
メイファは寂しそうに微笑み、ただ俯いた。
「だけどな、メイファ」
アルダシールは彼女の肩にぽんと手を置いた。その手は固く、しかし温かかった。
「今、俺の目の前にいるのはお前だ。俺がこの命を懸けて守ると決めたのは、お前とアルスだ。それだけは、世界の仕組みがどうひっくり返ろうと、絶対に変わらない」
「あなた……」
「ふん、人間どもの情愛劇は、相変わらず理解に苦しむな」
前方を歩いていた幹部が、冷ややかに鼻を鳴らした。
「だが、お前がその名を呼んだのは、あながち無関係でもあるまい。これより先は、太古の星々の大戦の傷跡が最も深く残る『断絶の谷』だ」
「戦いの跡だと?」
「そうだ。地上から降ってきた異形どもと、我らの祖先が最後に激突した場所。その谷の底には、今も奇妙な『力』が渦巻いている。お前の言うその魂の片割れとやらも、その波長に引き寄せられているのかもしれんぞ」
幹部が指し示した先には、底の見えない巨大な奈落が広がっていた。
その暗闇の底から、冷たい風と共に、アルダシールの記憶のどこかに焼き付いている、狂おしいほど懐かしい「狐の毛並み」の匂いが、確かに一瞬だけ漂ってきた。




