古文書庫とオテントサマの記憶
古い紙の独特な匂いに、乾燥させた薬草の濃厚な香りが複雑に交じり合っていた。
メイファは息子のアルスの小さな手を、溢れ出る不安を押し殺すようにして力強く握り直した。
薄暗い通路を抜けた先には、天頂の岩盤が見えぬほど高く聳え立つ、巨大な円筒形の空洞空間が広範囲にわたって佇んでいた。壁面一面にくり抜かれた無数の棚には、地上の図書室で見かけるような紙で束ねられた本など一冊も存在しない。そこには幾何学的な寸法で切り出された無数の黒い金属板が、寸分の狂いもなく整然と並べられていた。
円筒形空間の中央には、直線の美しい一本の細い光の柱が、底部の床面から天頂へ向けて垂直に真っ直ぐ伸びている。
その清浄な光の傍らに、一頭のレプティリアンが静寂を守るようにして腰を下ろしていた。
彼の体表を覆う無数の鱗は、これまでに遭遇してきた戦士たちや幹部たちの質感とは決定的に異なっていた。まるで焼き上げられた最高級の白磁のごとく、乾いた純白色を帯びている。纏う上衣に施された複雑な刺繍は永い年月の経過で擦り切れており、床面まで届くほどの長い髭が静かに横たわっていた。
「よくぞ参られた、世界を結ぶ小さき楔の幼子よ」
白磁の鱗を纏う老長老の声は、枯れた不毛の砂が擦れ合うような重厚で乾いた響きを伴って届いた。
アルスは、母メイファが固く握り締めていた手をすっと力みなく解き、吸い寄せられるように光の柱の方向へ向かって足を踏み出した。
「アルス、だめよ。お母さんから離れてはいけません」
メイファは必死に声を潜めて呼び止めたが、幼い息子が振り返る気配は一切なかった。
アルスは整然と並ぶ棚の前に歩み寄り、一枚の漆黒の金属板の前で足を止めた。そして小さな指先を伸ばし、その冷ややかな表面に刻まれた複雑な溝をなぞりはじめた。
「これ、ぼく知っているよ。お空の上にいる、オテントサマのお話だね」
幼き少年の口から軽やかに発せられたその言葉を聞いた瞬間、メイファの背筋に冷たい刃を押し当てられたかのような激しい戦慄が走った。
白磁の鱗を持つ長老は、細く長い指先を静かに組み替え、思慮深げに黄金の瞳を細めた。
「読めるのか、その平民や地上の人間にはただの傷や模様にしか見えぬ複雑な刻印が」
「うん。文字が頭の中で、綺麗な歌みたいに楽しそうに響いているんだ」
アルスの小さな指先から、ゆらゆらと微かな白い蒸気が立ち上り始めた。
その蒸気は、黒い金属板の表面に微小な密度で刻み込まれた無数の幾何学模様の中へ、引き寄せられるようにして吸い込まれていく。
次の瞬間、金属板がかすかにキィンと高い共鳴音を響かせて震え出し、内側から深緑色の光を脈動するように放ち始めた。
「アルス、もうおやめちなさい。こちらへ戻りなさい」
メイファは一歩前へ踏み出そうとしたが、足元の床から伝わる冷気が全身の関節を縛り付け、思うように動かすことができなかった。
「お母さん、大丈夫だよ。こわくないの。これ、僕たちの本当のお家や世界の成り立ちのお話なんだから」
アルスは光を放つ金属板を見つめたまま、感情の起伏を感じさせない静かな声で応じた。
「やはり、この特異な血脈に宿る太古の記憶は、苛烈な地上においても絶えることなく引き継がれておったか」
一行を書庫へ案内してきた幹部が、背後の岩陰の深い闇の中から冷ややかに呟いた。
白磁の長老の眼球を覆う虹色の薄い膜が、妖しいまでに鮮やかな光を帯びて明滅した。
「かつて世界に落とされたササン朝の種子が、一千年という膨大な時空を経て、この地底都市の気と触れ合うことでようやく芽吹いたのだ」
「この幼い子に、一体何をさせようというのですか」
メイファは、眼前に立つ我が子の小さな背中に、これまで一度も目にしたことのない冷徹で神聖な気配を感じ取り、激しい胸の騒ぎを抑えきれずに問いかけた。
「我が方は何も強制しておらぬ。この少年が、自らの遺伝子領域に刻み込まれた巨大な記憶システムを、己の意思で起動させているに過ぎぬのだ」
長老の白い尾が、滑らかな黒い床石を静かに横撫でした。
アルスの瞳の奥底に、ほんの一瞬だけ、彼らレプティリアンと同質の眩い黄金色の光が宿った。
直後、円筒形書庫の広大な壁面全体に収められた無数の黒い金属板が、少年の穏やかな呼吸の周期と共鳴するように、一斉に重々しく低い唸り声を上げ始めたのである。




