大修練場と赤き鱗の教官
肌を刺すような冷気が、白石の寝台の隅から静かに這い上がってきた。
アルダシールは、瞼の裏側に広がる仄暗い深緑色の光を感じ取り、静かに瞼を開いた。
地上のような鳥のさえずりも、東の空が白んでいく気配もこの地底都市には存在しない。ただ天頂を覆う複雑な岩肌の隙間から、昨日よりも一段と濃い燐光が静かに注ぎ込まれていた。この光の色彩の変化だけが、地底における朝の訪れを物語っている。
彼は上身を起こし、己の右腕をそっと見つめた。皮膚の下を巡る血管は静まり返っているものの、指先で触れると、奥底で静かに燻るような温かな熱が確かに残っていた。王の清浄なる光によって悪意の残滓は消え去り、今や己の内に流れるササン朝王族の血脈が、この太古の空間と同調して力強く息づいている証であった。
隣の寝台では、アルスが穏やかな寝息を立てて熟睡していた。昨夜のような白い蒸気はもう指先から立ち上っておらず、衣服の襟元には昨日頬張った果汁の跡が小さな染みとなって残っている。
メイファはすでに身支度を終え、部屋の隅に置かれた青い水盤の前に佇んでいた。水盤から立ち上る微かな硫黄の匂いが、室内の清涼な空気に混ざり合っている。
やがて、部屋の滑らかな壁面がかすかな風の音とともに横へ滑り開いた。
通路の薄暗がりの奥から姿を現したのは、昨日一行を導いた幹部であった。彼の黒真珠のごとき滑らかな鱗は、朝の深い緑色の光を浴びて冷徹な輝きを放っている。纏う衣服の銀糸が、歩みを進めるたびにシャリシャリと繊細な音を立てていた。
「目覚めたようだな、地上の客人たちよ」
幹部の低く硬い思考の波動が、静かに床を伝わってきた。アルダシールは足元に置いていた古びた直刀を拾い上げ、腰の帯へと確実に差し込んだ。
「身体は驚くほど軽い。案内を頼む」
メイファがアルスの小さな肩をやさしく揺り動かした。
「アルス、起きなさい。今日からお勉強でしょう」
アルスは眠そうに小さな目を擦りながら、寝台から元気に飛び降りた。
「お腹がすいたな。昨日のお肉、また食べられるかな」
幹部はアルスの無邪気な言葉に、黄金色の縦長の瞳を細めた。
「今日の食事の質は、修練の進み具合によって決まる」
「ええ、厳しいんだね。ぼく、たくさん頑張るのに」
アルスは小さな口を少し尖らせ、幹部を見上げた。幹部は長い尾の先端を滑らかな床へ軽やかに打ち付けた。
「その意気込みが、どこまで続くか見ものだな」
アルダシールは二人のやり取りを見届け、一歩前へ出た。
「まず、俺はどこへ向かえばいい」
「お前はこの通路の突き当たりにある大修練場だ。教官が待っている」
幹部は長い指を示し、暗い通路の奥を指し示した。
「アルスはどうする。一人にするつもりか」
メイファが我が子の手を固く握りしめながら尋ねた。
「少年は長老直属の古文書庫へ向かう。母親のお前も同行を許そう」
幹部の眼差しには、漂着した親子の資質を見極めようとする厳かな光が宿っていた。
「分かれた方がいい。お互いの甘えを断ち、集中を高めるためにな」
アルダシールはメイファの不安を和らげるように、声を低く潜めた。
「でも、アルダシール、本当に大丈夫なのでしょうか」
メイファの細い眉が中央に寄り、案じる色を深めた。
「あの長老たちの瞳に偽りはなかった。俺を信じろ」
アルダシールは直刀の柄を一度強く握りしめて見せた。
「ぼく、お母さんと一緒だから怖くないよ。強い男の子になるんだ」
アルスは小さな拳を胸の前で握りしめ、力強く言い放った。幹部は踵を返し、静かに歩き始めた。
「時間が惜しい。ついてこい」
通路の両側に並ぶ黒い石の壁は、触れると微かに生き物のような拍動を返してきた。数歩進むごとに、天井の結晶光が明滅を繰り返す。
その規則的な明滅に呼応するように、アルダシールの全身の血管が力強く脈動した。ササン朝の末裔という言葉が、古の記憶となって頭脳を駆け巡る。遺伝子の奥底に焼き付いた太古の記憶が、この地底の清浄な環境に触れて、静かに覚醒の時を迎えようとしていた。彼は直刀の柄を握る手に力を込め、全身を満たす熱量を意線へと集中させた。
やがて通路は二股に分かれた。
左側の通路からは、古い紙の匂いと乾燥した薬草の香りが静かに漂ってくる。右側の通路からは、激しい風の鳴り響く音と、重い金属が激突し合う鈍い響きが届いていた。
「ここで分かれる」
幹部が立ち止まらずに告げた。アルダシールは少年の小さな頭にそっと手を置いた。
「アルス、先生の言うことをよく聞くのだぞ」
「うん。お父さんも、負けちゃダメだよ」
アルスは母親に手を引かれ、左の通路へと消えていった。アルダシールは背中を見送り、一人右の通路へと足を進めた。
奥へ進むにつれて、空気の温度が急激に上がっていく。肌を刺すような重厚な熱気が、通路の奥から波のように押し寄せてきた。床の金属板が、靴底を通じて灼熱の熱を伝えてくる。
突き当たりの扉は、巨大な鉄の塊であった。扉の表面には、無数の鋭い爪で引っ掻いたような傷痕が深く刻み込まれている。
重々しい地鳴りとともに、鉄の扉が左右へ滑り開いた。
内部は、直径五十歩はあるかと思われる円形の広大な空間であった。天井は見えないほど高く、深い暗闇が上空を覆い隠している。中央には、赤く灼熱した鉄の巨大な柱が一本、天へとそびえ立っていた。柱の周囲からは白い蒸気が絶え間なく噴き出し、空間全体を白く霞ませている。
その灼熱の柱の前に、一頭の大柄なレプティリアンが立ち塞がっていた。
彼の体表を覆う鱗は、他の者たちとは異なり、深い血のような赤色を帯びている。背中には、数々の死線を潜り抜けてきたことを示す大きな傷痕が縦に走っていた。その手に武器は存在しない。ただ太い腕の筋肉が、呼吸に合わせて生き物のように収縮を繰り返していた。
「待っていたぞ、巨人の血を引きし者よ」
赤い鱗の教官の声は、空間全体の空気を重々しく震わせた。アルダシールは古びた直刀を静かに抜き放ち、正眼に構えた。
「俺の武技が、ここで通じるかどうか試させてもらう」
教官は口唇を僅かに歪めた。
「地上の生ぬるい剣技など、ここでは何の意味もなさん」
「やってみなければ分からぬ」
アルダシールは一歩を踏み出し、身体の軸を沈めた。
「その刃が、我が皮膚を捉えられると思うか」
教官は両手を大きく広げ、無防備な姿をさらした。
アルダシールの右腕が異常な熱を帯びていく。血管の奥底で、千年の運命が、古の記憶が激しく弾けようとしていた。もはや言葉による対話は不要であった。
アルダシールは赤く灼熱する柱へ向かい、強く大地を蹴り飛んだ。




