事象の書き換えと古の極意
銀の杯のひんやりとした冷たさが、アルダシールの掌を通じてじわりと胸の奥底へ染み込んでいく。
白石を精緻に削り出して作られた円形の卓を照らすのは、壁面から滲み出る琥珀色と深緑色が入り交じった柔らかな光であった。その静謐な空間には、柔らかな衣服が擦れ合うかすかな音と、小気味よい咀嚼の響きが穏やかに混ざり始めていた。
五歳のアルスは、目の前の大皿に盛り付けられた料理へ向けて短い両手を無心に伸びしめていた。
紫色の綺麗な斑点がある煮込み肉の塊を小さな手で掴み、大きな口をいっぱいに開けてかぶりつく。柔らかい肉の繊維を幼い歯で咀嚼するたび、甘みを含んだ濃密な汁が顎を伝ってぽたりと滴り落ちた。さらに少年は、地上のいかなる果実よりも瑞々しい鮮烈な青色の実を、次々と小さな口へ放り込んでいく。
廣州の港を逃れ、巨大な海の亀裂を落ちてからというもの、まともな食事を摂れていなかった幼い身体が、貪欲に栄養と生命力を買い求めていた。
メイファは温かな眼差しで息子の口元を白い布で優しく拭った。
「アルス、お皿を傾けないように気をつけなさい」
アルスは頬をいっぱいに膨らませたまま、嬉しそうに何度も頷いた。
「お母さん、これすごく甘くて美味しいよ。お腹の奥がぽかぽかするの」
長老の輝く金色の瞳が、その微笑ましい親子の光景を温かい光を湛えてじっと見つめていた。その体表を覆う黒真珠のような滑らかな鱗は、室内の光の明滅に合わせて落ち着いた輝きを返している。背後に控える幹部は、長い尾を滑らかな床へ静かに横たえ、低く硬い思考の波動を響かせた。
「よくぞ、あれほどの地獄から無事で辿り着かれた」
アルダシールは銀の杯を卓へ置き、長老に向き直った。
「あんたたちは、俺たちを心から歓迎してくれるのだな」
長老は胸元の青い宝珠に手を当て、ゆっくりと首を縦に振った。
「地上の理が狂い、影喰の不吉な泥に追われた旅人を拒む理由は我が方にはない」
「だが、俺の体内に流れる波斯の血は、時に予期せぬ引き寄せを起こす」
アルダシールは筋肉の引き締まった右腕を卓の上に置いた。王の清浄なる光によって黒い悪意の残滓は消え去っていたが、皮膚の奥底には古の記憶が静かな熱となって宿っている。
長老はアルダシールの力強い腕を見つめ、静かに目を細めた。
「恐れることはない。この地底都市を包む古代の結界は、地上よりも遥かに強固だ。あの影喰の泥ごときに破られるほど脆弱ではない」
その時、幹部が一歩前へ進み出で、アルスが空にした大皿を指し示した。
「それよりも、我らはその幼き少年の身に起きた現象に深く息を呑んでいる」
「アルスの身に、何が起きているというのですか」
メイファが不安に瞳を揺らし、我が子の華奢な肩を抱き寄せるようにして尋ねた。
長老の長い爪が、卓の上に残された青い果実をやさしく撫でた。
「その青い実の果汁には、本来、地上人の内臓を焼き爛れさせる強烈な刺激と微量な毒が含まれておる」
「そんな恐ろしいものを、この子に食べさせたのですか」
メイファの美しい顔から、一瞬で血の気が引いていった。
「案ずることはない。現に少年は痛む素振りすら見せておらぬ」
幹部の声には、非難ではなく純粋な驚嘆と敬意が混ざっていた。
アルスは空になった器をそっと卓に戻し、不思議そうに己の小さな手のひらを見つめていた。その指先から、地上では見たこともないような細い白い蒸気が、立ち上る煙のようにゆらゆらと空気中へ溶け出している。
それは体内に取り込まれた毒素や異物が瞬時に中和され、無害な純粋エネルギーとなって全身を巡り、余剰分が放出されていく光景であった。
「これは、我が種族の古い記録にある事象の書き換えという現象に他ならない」
長老は深い感慨を込めて言葉を紡いだ。
「事象の書き換えとは、具体的にどういうことだ」
アルダシールは長老の黄金の瞳を真っ直ぐに見据えた。
「この少年は呪文も術式も一切使っておらぬ」
長老の体が揺れ、体表の鱗が擦れ合ってシャリシャリと繊細な音を立てた。
「ただ喰らうという極めて原始的な生の営みによって、世界の持つ危険な規則そのものを無害なものへと書き換えているのだ」
アルスは己の指先から立ち上る白い蒸気を首を傾げて見つめた。
「なんだか、体の中がすごく温かくて元気が出ちゃった」
メイファはアルスの小さな背中を何度も優しく撫で、その息遣いが穏やかであることを確かめた。
「大理や廣州にいた時は、このような不思議なことは起きておりませんでした」
「地上の濁った空気と歪んだ理が、彼の内なる覚醒を抑え込んでいたのだろう。この清浄な地底の気に触れたことで、内に眠る理を整える力が芽吹いたのだ」
長老は慈愛に満ちた眼差しを親子へと向けた。
アルダシールは胸の内で深く思考を巡らせた。王が昨日示した、日の本へ至る激しい地底海流と、地上を覆う悪意の泥。アルスのこの異能こそが、苛烈な難所を突破し、歪んだ世界を正すための最大の鍵となることを確信していた。
「長老。俺たちがこの地に留まり、力を蓄えることは許されるか」
アルダシールは低く問うた。
「もちろんだ。むしろ、この地底都市こそが、傷ついた心身を養い、来るべき運命に備えるための唯一の聖域である」
幹部が力強く頷き、アルダシールの腰にある欠けた直刀に視線を落とした。
「明日より、暫くは我が都市で心ゆくまで休むが良い。そして親子ともども、この地に伝わる太古の知識と武術を磨くのだ」
「知識と、武術を」
メイファが驚きの声を漏らした。
長老は深く頷いた。
「少年の中に眠るその稀有な力は、いずれ日の本へ至り、世界を救う盾となる。そのためには己の力を自在に制御する術を学ばねばならぬ。少年と母親は、我が直属の古文書庫へ案内しよう」
幹部がアルダシールへ向け、鋭い眼差しを向けた。
「そしてアルダシールよ。お前が引き継ぐ武技も、我が方の修練場であればさらに高みへと引き上げることができる。地底海流の激流を突き抜け、日の本で悪意の泥を斬り伏せるための真髄を授けよう」
アルダシールは腰の古びた直刀の柄にそっと触れた。
大理や廣州での戦いにおいて、圧倒的な泥の量と呪詛の前に、ただ家族を守って逃げ惑うことしかできなかった悔しさが、苦い記憶として胸を刺す。もしここで、あらゆる災厄を打ち払う圧倒的な強さを手に入れられるのであれば、断る理由などどこにもなかった。
「お父さん、ぼく、ここのおじちゃんたちとお勉強したいな。強い男の子になって、お母さんとお父さんを守るんだ」
アルスがアルダシールの衣の裾を小さく握りしめて言った。
メイファも夫の横顔を見つめた。
「アル、ここでの鍛錬を受け入れましょう。日の本へ辿り着き、真の平和を得るために」
アルダシールは長老たちの高潔な佇まいを今一度、細部まで静かに観察した。そこには地上で出会ってきた欲望に塗れた人間のような欺瞞は一切存在しない。ただ世界の調和を守ろうとする、威厳に満ちた意志だけがそこにあった。
「分かった。あんたたちの提案を受け入れよう。俺に地底の武技を叩き込んでくれ」
アルダシールは力強く応じた。長老は満足そうに目を細めた。
「賢明な判断だ。明日より我が方の書庫と大修練場をすべて開放しよう」
地底都市の心臓部を満たす琥珀色と緑色の光が、彼らの決意を祝福するかのように一層深く穏やかに輝いた。地上の過酷な運命から一時切り離されたこの深遠なる空間で、日の本への飛翔に向けた新たな修行の日々が始まろうとしていた。アルダシールは己の血脈を巡る熱が、静かに力強い形へと変貌していくのを確かに体感していた。




