地底の航海図と日の本への道標
深い眠りから目覚めたアルダシールの視界を最初に満たしたのは、白石の壁面から染み出すやわらかな琥珀色の光であった。
身体を包み込んでいた織物は絹のように滑らかで、幾日も骨を削り続けた過酷な逃避行の記憶が嘘であったかのように、全身には満ち足りたエネルギーが漲っていた。こめかみの奥を満たしているのは澄み切った静寂だけであり、地上の悪意や泥の呪詛がもたらす不吉な重苦しさは影すら存在しない。
「アル、起きたのね」
小さな泉の傍らに立っていたメイファが、優しく微笑みながら声をかけた。
「見て、この泉の水。ただ冷たいだけじゃなくて、口に含むと果実のような微かな甘みがあるの。アルスもさっきから夢中で喉を潤していたわ」
寝床から跳ね起きたアルスが、水滴のついた唇を拭いながら駆け寄ってきた。
「お父さん、ぼくの足の擦り傷、すっかり治っちゃったよ。皮の靴を履いても痛くないの。このお部屋、ずっとここにいたいくらい温かいね」
アルダシールは息子の頭を撫で、自らの手のひらをゆっくりと握りしめた。
「ああ。だが、俺たちの旅はここで終わりではない。地底の王が示してくれた温情に甘えつつも、目指すべき場所へ向かう道を確かめねばならない」
「日の本、ね」
メイファが静かに頷いた。
「ええ。安禄山の放つ悪意の泥が地上を喰い尽くす前に、私たちは新しい家を見つけなければならないわ」
その時、静謐な居室の滑らかな壁面が静かに横へ滑り、一頭のレプティリアンが姿を現した。銀色の重厚な装飾を胸に纏った側近の兵であった。狭い口唇は閉ざされたままであったが、頭の奥底へと通る思考の波が届いた。
(異邦の客人たちよ、目覚めたか。我が王が記憶の回廊にて待たれている。日の本へ至る道標を示す刻が来た)
アルダシールは直刀を腰にしっかりと帯び直し、妻と息子の手を取った。
「案内を願おう。俺たちの未来を見極めるために」
側近の兵に導かれ、一行は幾何学模様が刻まれた回廊を再び進んだ。昨日歩いた時とは異なり、身体の重苦しさが完全に消え去ったアルダシールの眼には、周囲の構造がより鮮明に映し出されていた。
壁面に埋め込まれた青緑色の光脈は、単なる照明ではなく、この巨大な都市全体に活力を供給する脈管のごとく明滅している。通り過ぎるレプティリアンの住人たちは、一貫して威厳に満ちた佇まいで静かに道を開け、客人に深い敬意を含んだ縦長の眼差しを向けていた。
「アル、見てごらんなさい。廊下の天井に刻まれているのは、星座の図かしら」
メイファが天井を仰ぎ見ながら呟いた。
「でも、地上で見る夜空の星並びとは少し違うわ。まるで、地球の内側から外の空を見上げたような、奇妙な反転を感じるわ」
「鋭い観察だな、メイファ。古の波斯の手記にも記されていた。この地底の都は、地上で文明が芽吹くより遥か昔、星の運行と同調して築かれたとな。彼らは天の動きと地の脈動を、完全に把握しているのだ」
やがて一行は、円形の巨大なドーム状の空間へと足を踏み入れた。
そこは「星図の間」と呼ばれる記憶の回廊であった。天頂から床面に至る空間の中央に、青緑色の光で構成された巨大な球体が、音もなく浮遊しながらゆっくりと回転していた。
それは、地球そのものの立体的な雛形であった。表面には陸地と海洋の輪郭が浮かび上がり、その内部には網の目のように巡る地下水路と地脈が、光の筋となって複雑に交差している。
「よくぞ参った、アルダシール」
球体の手前に佇んでいた地底の王が、ゆっくりと振り返った。
「これなるは、我が種族が太古より刻み続けてきた世界の全容である。過去、現在、そして地上の歪みがもたらす未来の兆しが、すべてこの光の中に描かれておる」
アルスが灰色に澄んだ瞳を丸くし、浮遊する光の球体を見上げた。
「わあ、すごい。地球の真ん中に、こんなにたくさんの光の道が流れてる。お父さん、あそこ、黒い影がうねうね動いてるよ」
アルスの指差す先、大陸に相当する領域の表面に、不吉な漆黒の斑点がまるで毒虫のごとく蠢いていた。
「気付きおったか、小さき者よ」
王の思考の波が、重々しい憂慮を伴って響いた。
「あれこそが、安禄山という名の人間が放ち、地上の不吉な欲望を吸って増殖する黒き泥の領域である。大理を呑み込み、廣州の海を侵し、いまや唐の全土を腐らせようとしておる。あの泥は単なる地上での争いにとどまらず、世界の理そのものを歪める次元の腐毒なのだ」
「何ということだ」
アルダシールは浮遊する光の地図を凝視し、息を呑んだ。
「陸地だけでなく、沿岸の海にまで黒い網の目が広がっている。これでは地上の船で海を渡ろうとしても、途中であの泥の渦に捕らわれてしまう」
「その通りだ。しかし、見よ。汝らが落ちてきた廣州の沖合を」
王が指を示すと、光の球体の一部が大きく拡大された。
廣州の海にぽっかりと開いた漆黒の亀裂。そこから細い水色の光筋が、地底世界へ向かって斜めに落ち込んでいた。アルダシールたちがダウ船ごと呑み込まれた巨大な穴であった。
「汝らはこの巨大な次元の亀裂を落ち、我が地底の海へと漂着した。だが、この地底海流には、さらに東へと続く隠された深層の抜け道が存在する」
王が手をかざすと、地底世界の底を這うように伸びる、一筋の太く輝く青い光流が強調された。その光流は分厚い岩盤の底を突き抜け、大陸の東の果て、大海原に浮かぶ小さな島々の直下へと向かって一直線に伸びていた。
「この東の島国こそ、汝らが目指す日の本である」
王の言葉に、メイファが思わず両手を胸の前で組み合わせた。
「地底の海を通って、日の本へ繋がっているというのですか」
「然り。日の本と呼ばれるあの島々は、地球の背骨とも言える強力な龍脈が集中する聖域である。太古の昔に張られた清らかな結界が今なお生きており、安禄山の放つ黒き泥であっても、あの島国の土地へ直接侵入することは叶わぬ」
「日の本なら、泥の化け物どもから逃れられるのだな」
アルダシールは固く拳を握りしめた。
「そうだ。しかし、この地底海流の果てにある出口は、凄まじい水圧と岩礁が渦巻く極悪の難所で波を打っている。地上人が造りし木造の舟では、出口の結界に触れる前に木砂となって砕け散るであろう」
「では、俺たちはどうやってあの海流を渡ればよいのだ」
「案ずるな、アルダシールよ」
王は縦長の瞳を静かに細め、威厳に満ちた足取りで一歩前へ出た。
「汝らはただの無力な避難民ではない。絶望の泥に抗い、清らかな志を保ってここまで辿り着いた選ばれし魂である。我が種族が誇る古代の結晶舟と、地底海流を突破するための導きの宝珠を授けよう」
「結晶舟を、俺たちに」
「そうだ。あの結晶舟ならば、激しい水圧も岩盤の摩擦も寄せ付けず、日の本の海域へと汝らを安全に送り届けることができる。ただし、日の本へ上陸したのち、汝らには果たすべき役割がある」
王の思考の波が、氷のごとく冷徹で重厚な真実を叩きつけてきた。
「地上を侵す黒き泥は、やがて日の本の周縁をも囲い込み、世界そのものを孤立させて滅ぼそうとするだろう。汝らはあの島国に根を下ろし、やがて訪れる最終の災厄に備えて、清らかな魂の種を繋がねばならぬ」
アルダシールは一歩も引かず、王の圧倒的な眼差しを真っ直ぐに受け止めた。己の体内に流れるササン朝王族の記憶が、熱い昂ぶりとなって脈動していた。
「望むところだ。羊を追っていただけの俺が、運命に導かれてここまで来た。家族を守り、世界の理を繋ぐためならば、どのような難所であっても突き抜けてみせる」
「頼もしい答えだ、地上の勇者よ」
王は巨大な顎を静かに引き、側近たちへ向けて合図を送った。
「明日、東の地底海流の起点となる神聖なる港にて、結晶舟を引き渡す。今宵は最後の準備を整え、意気を養うがよい」
光の球体が静かに光量を落とし、星図の間に神秘的な余韻が広がっていった。
居室への帰り道、アルスがアルダシールの衣の端を引っ張りながら、灰色の瞳をキラキラと輝かせた。
「お父さん、日の本ってどんなところかな。綺麗なお花や、美味しいお水がいっぱいあるかな」
「ああ、きっとあるさ。お前が思い描く通りの、静かで美しい国だ。そこでお前を、何の恐怖もない素晴らしい場所で育ててみせる」
メイファも寄り添い、安らかな笑みを浮かべた。
「アル、私たち、本当に光のある場所へ向かっているのね」
「ああ。もう二度と、暗闇に怯える必要はない」
アルダシールは胸の内側で、静かに独白した。
(安禄山よ、黒い泥の悪意よ。どれほど地上を侵食しようとも、俺たちは生き延びる。地底の古の叡智を携え、東の聖域にて必ずや未来を切り開いてみせる)
過酷な運命の糸に手繰り寄せられながらも、家族三人は固い決意を胸に抱き、日の本への旅立ちとなる明日の刻を静かに待つのであった。




