深淵の玉座と清浄なる光
無数の幾何学模様が刻まれた薄青い回廊を抜けると、不意に視界が大きく開けた
そこに広がっていたのは、天地の感覚すら揺らぐほどの途方案ない大空間であった。天頂を仰げば、巨岩の亀裂から降り注ぐ月光のごとき淡い光束と、天井一面に垂れ下がる発光結晶群が、蒼白き光の海を作り出している。その広大な空間の中央、白銀の巨石を削り出して造られた高大な台座の上に、圧倒的な威厳を放つ存在が佇んでいた。
身丈は十尺を超え、全身を覆う深い群青の鱗は天頂の光を受けて黄金色の微光を返している。胸元には古の星々を想起させる重厚な装飾具を纏い、その扁平な頭部の中央には、万物の理を透過するかのような澄んだ縦長の瞳が輝いていた。
地底世界を統べ、悠久の時を生き続けるレプティリアンの王であった。
「ここが、この地底世界の真の頂か」
アルダシールは低く言葉を漏らし、己の息を整えた。腰の直刀から手を離してはいたものの、王が放つ圧倒的な存在感の前には、己の肉体がいかに小さな存在であるかを痛感させられる。
王の側近たる異形の兵たちが両脇に立ち並び、静寂が広場を支配した。その時、直接頭の奥底へと響く、重厚でどこか温かみのある思考の波が届いた。
「よくぞ参った、地上より来たりし異邦の者たちよ」
王の口唇は動いていない。しかし、その意思表示は音の塊以上に明確な意味として、三人すべての意識へと注ぎ込まれた。
「俺たちの存在を許し、ここまで導いてくれたことに感謝する」
アルダシールは一歩前へ出て、己の胸に手を当てて静かに一礼した。
「我が名はアルダシール。波斯の血を引き、地上では羊を追う牧徒として生きてきた者だ。こちらは妻のメイファ、そして息子のアルス。我らは地上の破壊から逃れ、生き延びる術を求めてこの地へと滑落した」
王の縦長の黄金の瞳が、じっとアルダシールの全身を巡った。その視線は肉体を透過し、骨の奥底や血の巡り、さらには精神の層までをも詳細に観察しているようであった。
「アルダシールよ。汝の器には古の星の血が流れ、その心根もまた気高く保たれている。しかし、汝の全身には、地上の浅ましい邪念と悪意の残り香が、あまりにも深く染み付いているぞ」
「邪念の残り香、だと」
アルダシールは己の手のひらを思わず見つめ直した。
「我が瞳は肉の奥、血脈に刻まれた波長をも透過する。さらに我が種族は地底の水晶を通じ、地上の歪みを常に観測しておる。汝の肉体には、大理の地で噴き出した泥の残留波長と、廣州の海を渡った黒き潮の記憶が、不吉な斑点となってはっきりと浮かび上がっておるのだ」
「大理と廣州の記憶まで見抜いているというのか」
アルダシールは息を呑んだ。
「大理や廣州での過酷な激闘、そしてあの悪意の泥と刃を交えた際、目に見えぬ呪詛の飛沫が汝の肉体と精神の隙間に根を張りつつある。そのまま放っておけば、数日のうちにその健やかな肉体は冷たき熱に侵され、体力を吸い尽くされるであろう」
王の言葉を受け、メイファが息を呑んでアルダシールの側へ駆け寄った。
「アル、本当なの。顔色は海に出てから良くなったと思っていたけれど、そういえば旅の途中で何度も肩や背中をさすっていたわ」
「そういえば、ずっと全身が鉛のように重く、抜けない疲労に追われている感覚はあった。激闘の連続による肉体の限界だと思っていたが、あの泥の悪意が俺の肉体を蝕み始めていたというのか」
アルダシールは己の直刀の柄を見つめた。あの黒い泥の兵たちを何度も斬り伏せた刃、そして衣服の裾に付着していたわずかな汚れが、目に見えぬ毒となって体内へ悪意を撒き散らしていたのだ。
「その台座へ進むがよい、地上の猛き者よ」
王が静かにその大きな手をかざすと、広場の中央にある滑らかな白石の台座が、淡いエメラルドグリーンの光を放ち始めた。
「我が裁きを下す前に、まずはその穢れを払わねば無益な問答にもならぬ。地底の清らかな気が、汝の肉体を本来の姿へと戻すであろう」
アルダシールは迷わなかった。王の瞳に宿る真摯な意思を感じ取り、そっと白石の台座へと足を乗せた。
直後、天頂の発光結晶から太い光の束が降り注ぎ、アルダシールの全身を包み込んだ。
「これは」
刃物で切り裂かれるような痛みも、酷い薬草の熱さもなかった。頭上から降り注ぐ緑の光は、まるで春の陽光のごとく温かく、全身の毛穴から肉体の深層へと染み通っていく。
肉体の奥底にこびりついていた冷たく不吉な痺れが、朝露が陽光に溶けるかのようにみるみる消え去っていくのを体感した。直刀を握り続けて強張っていた指先や、腕の筋肉を覆っていた重苦しい疲労感が綺麗に洗い流され、代わりに満ち溢れるような瑞々しい生命力が細胞の隅々にまで巡り始めた。
それだけではない。擦り切れていた衣服の端から、黒く煤けたような煙が微かに立ち上り、空気中へと霧散していった。あの安禄山が放つ黒い泥の残滓が、清浄な光によって完全に消滅したのだ。
「すごい。お父さんの周りから、嫌な黒い影がみんな消えていくよ」
アルスが目を輝かせ、弾んだ声を上げた。
「光がすごく綺麗。お父さんの顔も、羊を追っていた頃みたいに、すごく優しくなってる」
「ええ、本当に。まるで全身の毒素が洗い流されたみたい」
メイファも安堵の笑みを浮かべ、胸の前で深く手を組み合わせた。
やがて光が収まり、アルダシールは台座からゆっくりと降り立った。その足取りは恐ろしいほど軽く、全身に漲るエネルギーは過去のどの瞬間よりも力強かった。
「深い配慮に心から感謝する。肉体の奥底に溜まっていた重苦しい残滓が、跡形もなく消え去ったのを感じる」
アルダシールは深く腰を折り、王へと敬意を示した。
「礼には及ばぬ」
王は縦長の瞳を静かに細め、その巨体を僅かに揺らした。
「さて、地上の漂流者よ。汝らが目撃してきた地上の惨禍について、詳しく話を聞かせてもらおう。地上を覆うあの黒き泥の正体、そして汝らが目指す先の景色について」
アルダシールは立ち上がり、澄み切った瞳で王を直視した。
「安禄山という将が起こした謀反を皮切りに、地上は人の絶望と邪念を吸う不吉な泥に覆われ始めました。それは都市を呑み込み、死者を泥の傀儡に変え、生ある者の希望を打ち砕いています。俺たちはその悪意から逃れ、大陸の東の果て、海を渡ったところにあるという日の本と呼ばれる島国を目指しておりました」
「日の本か」
王は低く反芻し、巨大な顎を引いた。
「古の理が強く残りし東の聖域な。汝の言うとおり、あの地ならば地上を覆う悪意の侵食を塞ぎ止める防壁となり得よう。しかし、世界の胞衣を破りて湧き出すあの黒き泥は、いずれ海をも越え、この地の底にまで歪みを広げる世界滅びの芽である」
王の思考の波に、深い憂慮の色が混ざり込んだ。
「我が種族もまた、地上の異変には深く注視しておった。汝らのごとき清らかな魂が逃れてきたことは、決して偶然ではない。この地底都市において、まずは心ゆくまで羽を休めるがよい。疲れ切った身体を養い、来るべき運命に備えるのだ」
王の手招きに応じ、側近の兵が一人前へ進み出た。
「客人たちを、極上の居室へと案内せよ。十分な水と糧食を与え、安らぎの刻を保障するのだ」
(ついに、追っ手も泥の恐怖もない場所へ辿り着いたのだ)
アルダシールは胸の内でそう独白し、固く握りしめていた拳をそっと緩めた。
案内された居室は、滑らかな白石で造られた静謐な空間であった。壁面からは淡い緑色の柔らかな光が溢れ、部屋の中央には清浄な水が湧き出る小さな泉と、柔らかい織物が敷き詰められた寝床が用意されていた。さらには、地底に実る瑞々しい果実や、癖のない温かな穀物粥が用意されていた。
幾日もの間、死の恐怖に追われ、乾燥した干し肉と塩水だけで飢えを凌いできた三人にとって、その食事と安全な空間は涙が出るほどの恵みであった。
「美味しいね、お母さん。この果物、甘くてすごく冷たいよ」
アルスが果実を口一杯に頬張り、嬉しそうに頬を緩ませた。
「ええ、本当に美味しいわね。アル、私たち、本当に生き延びたのね」
メイファは夫の肩に頭を預け、安堵の涙を頬に伝わせながら微笑んだ。
アルダシールは二人をそっと抱き寄せ、壁面の柔らかな光を見つめた。
「ああ。安禄山の呪いも、黒い泥の悪意も、この深い岩盤を突き破って届くことはない。ここで体力を取り戻し、必ずや日の本へ辿り着く道を切り開いてみせる」
過酷極まる逃避行の果て、地底世界の温かな静寂の中で、家族三人は固く身を寄せ合い、深い安らぎの眠りについたのだった。




