地底都市への漂着と異形の眼差し
視界のすべてが狂乱する黒い渦へと呑み込まれていく。
巨大な海の亀裂は、途方もない咆哮を上げながらダウ船を呑み込み、天地の区別すら奪い去った。荒れ狂う水圧が木腹をきしませ、船体を激しく打ち叩く。アルダシールは狂暴な揺れの中でメイファとアルスを強固に抱き寄せ、ただひたすらに耐えた。落下の衝撃は永遠にも思えたが、全身を襲う無重力の浮遊感ののち、船は猛烈な飛沫を上げて水面へと叩きつけられた。
静寂が訪れた。
打ち寄せる波の音だけが、耳の奥で遠く鳴り響いている。
「メイファ、アルス、生きているか」
アルダシールは塩水で濡れた瞼を開き、吐き出すように声を上げた。両腕の中にいた妻と息子は、荒い息を吐きながらも確かに頷いた。
「ええ、なんとか。怪我はないわ」
「うん、ぼくも平気だよ。ここ、どこだろう」
アルスが不思議そうに呟き、空を見上げた。
アルダシールも立ち上がり、周囲の情景を視界に収めた瞬間、言葉を失った。
頭上に広がるのは、青い空でも夜空でもなかった。途方もなく広大な岩盤の天井が、どこまでもどこまでも覆いかぶさっている。その天井の随所には、青白く淡い光を放つ巨大な発光結晶が群生しており、地上でいうところの満月のような柔らかな光を、眼下の世界へと注ぎ込んでいた。
そこは、地球の内に閉じ込められた大空洞であった。
乗ってきたダウ船は、巨大な内海の砂浜に乗り上げていた。船底は激しい落下の衝撃で裂け、すでに航行の機能を失っている。しかし、三人を生きてこの異郷へ送り届けた大任を果たしたかのように、静かに砂へと沈んでいた。
「海の中に、こんな世界が存在していたなんて」
メイファは立ち上がり、足元の砂をすくい上げた。その砂は地上にあるような黄金色ではなく、微細な銀の粉を混ぜ合わせたかのような、不可思議な輝きを放っていた。
アルダシールはこめかみに手を当てた。
地上を歩いていた頃、彼を苦しめ続けていたあの歪な偏頭痛は、完全に消失していた。脳の奥底を満たしているのは、恐ろしいほどの静けさと清涼感であった。この地底を満たす空気は、硫黄と燐の匂いが微かに混ざり合っているものの、地上の悪意や黒い泥に汚染されていない、太古の純粋さを保っていた。
(この地は清らかだ。地上のあらゆる呪詛も、この深い岩盤を突き抜けて届くことはない)
己の血脈が、この閉ざされた空間の清浄さに安らぎを覚えていることを、アルダシールははっきりと自覚した。
だが、安堵の時間は長くは続かなかった。
「アル、見て。あそこ」
メイファが怯えた声で指し示したのは、砂浜の先に広がる密林の向こうであった。
そこには、巨石を積み上げて築かれた幾何学的な都市がそびえ立っていた。人間が造る建造物とは明らかに異なる様式であった。円錐と六角柱が組み合わされた尖塔群は、天頂の結晶光を反射して青緑色に妖しく光り輝いている。壁面には細かな鱗模様のような彫刻が隙間なく施されており、太古の昔から時を止めたまま存在し続けているかのような、威厳と異物感を放っていた。
「パパ、誰か来るよ」
アルスが鋭く呟いた。
密林の影から、カサリ、カサリと、乾燥した葉を踏みしめる規則正しい足音が近づいてくる。それは四足の野獣の足音ではなく、二本の足で確実に大地を踏みしめる者の歩みであった。
アルダシールは即座に直刀の柄へ手をかけ、妻子を背後に庇うように一歩前へ出た。
影の中から姿を現したのは、人間ではなかった。
身丈は七尺を超え、全身が細かな深緑の鱗で覆われている。背からは太くしなやかな尾が伸び、地面を掠めるように揺れていた。鋭い爪を持つ指、そして扁平な頭部の中央には、黄金色に輝く縦長の瞳孔をした目が不気味に光っていた。
直立歩行する爬虫類的な異形。太古の地底都市を守護する種族、レプティリアンであった。
彼らは一頭だけでなく、密林の奥から次々と姿を現した。その数は十数体。胸元には精緻な銀細工のような装飾品を纏い、手には青い光を宿した未知の長槍を握っている。
「なんなの、あの生き物は」
メイファが息を殺し、アルダシールの衣の端を固く握り締めた。
相手は殺気を出していなかった。ただ、冷酷で圧倒的な知性を宿した瞳で、漂着した人間たちを静かに見下ろし、観察していた。その眼差しは、害虫を見るような蔑みではなく、未知の珍獣の生態を測るかのような、どこか高次元の客観性に満ちていた。
アルダシールは刃を抜かず、柄に手をかけたまま微動だにしなかった。ここで敵意を示せば、一瞬で取り囲まれ圧殺されることは明白であった。
その時、群れの最前列に立つひと際大きな異形が、一歩前に進み出た。
その体表の鱗は濃い青紫色に輝いており、他の者たちよりも複雑な飾帯を身に着けている。長らしきその者は、狭い口唇を開いた。
言葉は発せられなかった。
しかし、アルダシールの脳裏に、直接的で硬質ないつのものとも知れぬ思考の波動が響き渡った。
(地上より落ちて来たりし者よ。汝らはなぜ、この禁忌の胞衣に足を踏み入れるか)
それは音ではなく、意味の塊として直接意識へと叩きつけられる意思表示であった。
アルダシールは息を呑み、己の意思を強く念じることで返答を試みた。己の血脈の底にある古代の昂ぶりを意識の波に乗せ、真摯に伝える。
(我らは地上の破壊から逃れてきた。争う意思はない。ただ命を繋ぐ術を求めている)
青紫の鱗を持つ長は、黄金の瞳を細めた。その縦長の発光体が、アルダシールの全身をくまなく走査するように動く。
(汝の器には、かつて地上を統べた古き星の血が揺らめいている。異郷の王の残り香。しかし、その血は呪われ、同時に澄んでいる)
長の精神波動には、かすかな驚きと興味の色が混ざり込んでいた。
「おじさんたち、こわくないよ」
沈黙を破ったのは、アルスであった。
アルスはアルダシールの背後から歩み出ると、レプティリアンの長を見上げた。灰色の瞳には恐れの色など一切なく、澄み切った好奇心が満ちていた。
「あっちの地上はね、黒くて汚い泥がいっぱいあって、みんな泣いてたの。でもここは、すごく綺麗で静かだね。助けてくれてありがとう」
アルスの放った純粋な言葉と、一切の邪気を持たないその波動に、十数体のレプティリアンたちが一斉にざわめいた。長槍を構えていた者たちが、わずかに武器を引く。
長は静かに屈み込み、アルスの目線までその巨大な頭部を下げた。乾いた皮膚が擦れ合う音が響く。
(この小子、心の奥底まで歪みがない。地上を覆う闇の泥に染まっておらぬ純血の灯火)
長は再び立ち上がると、無言で回れ右をし、幾何学的な都市へ続く道筋を示した。
(来い、地上の漂流者たちよ。我が王が待つ。汝らが滅びの地上から携えてきた運命の価値を、深淵の玉座にて見極めよう)
青緑の光を放つ地底都市への扉が、ゆっくりと重い音を立てて開かれようとしていた。アルダシールは妻と息子の手を固く握り直し、未知なる地底世界への第一歩を踏み出した。




