暁の帆走と漆黒の潮脈
漆黒の夜空を飾る無数の星々が、静かな大広海の波間にちらちらと揺れて映り込んでいた。
廣州の港町は遙か彼方の水平線の影へと消え去り、安禄山の放つ忌まわしい影喰どもの咆哮も、今や遠い潮騒の響きの中に掻き消えている。
西域特有の重厚なダウ船は、満開に膨らんだ一本帆に夜風をしっかりと受け、水面を滑るように東へと進んでいた。
ギィィ、ギィィと規則正しく鳴る船体の木擦れ音が、どこか心地よい子守唄のように揺れる甲板に響き渡っている。
「アル、見て。東の空が少しずつ白んできたわ」
木製の大きな舵輪を両手でしっかりと握り締めたまま、メイファが静かに声をかけた。
彼女の指す水平線の彼方、深い群青色の空と海の境目が、薄桃色のやわらかな光によってかすかに縁取られ始めていた。長かった恐怖の夜が明けていく。
「ああ。どうにか夜のうちに、陸の呪詛の届かぬ沖合まで抜けることができたな」
アルダシールは甲板のロープを固く結び直し、妻の隣へと歩み寄った。
「舵を代わろう、メイファ。お前はもうずっと休んでいない」
「ううん、大丈夫よ。この舵輪、驚くほど軽いの。まるで船自身が、どこへ向かうべきかを知っているみたい」
メイファは微笑み、疲労の滲む美しい顔をアルダシールへ向けた。
甲板の隅、厚手の毛布に包まれたアルスは、船の心地よい揺れに身を任せ、すー、すーと穏やかな寝息を立てて熟睡していた。小さな手には、昨日拾った綺麗な貝殻がしっかりと握り締められている。
アルダシールは息子の寝顔を優しく見つめ、己の手のひらをじっと見つめ直した。
こめかみを切り裂くようだったあの激しい偏頭痛は、海に出てからというもの、完全に影を潜めていた。波が船体を洗う爽やかな音と、塩気を交えた澄んだ風が、彼の脳の奥底に残っていた不吉な熱量を綺麗に洗い流してくれたかのようだった。
(あの激痛は、己の血に刻まれた古代の警告。世界が歪み、邪なるものが地を覆う時、俺の身体は逃げ場のない叫びを上げる)
ササン朝の王族の愛人であった亡き母。彼女から受け継いだ高貴にして不吉な血脈。
羊を追うだけの貧しい牧徒として生きようとした自分を、運命はどこまでも逃がしてはくれない。安禄山の起こした安史の乱、そして世界を侵食する黒い泥の正体。それらはすべて、己の内に流れる古の記憶と深く引き結ばれているのだと、アルダシールは確信していた。
「ねえ、アル。私たちはこれから、どこへ向かうの」
メイファの問いに、アルダシールは甲板から見上げる夜空の北極星に視線を移した。
「東だ。日の本と呼ばれる、海を越えた遥か東の島国を目指す」
「日の本へ」
「そうだ。波斯の古い手記にも記されていた。大陸の東の果て、海を隔てたその島国には、太古の神々が分け与えた清らかな気が今なお深く眠っているとな。安禄山の呪いがどれほど大陸を覆おうとも、広大な海を渡ったあの島国まで届くには時がかかる」
「日の本。そこに、私たちの新しい家があるのね」
「ああ。アルスを、あのような恐ろしい泥の化け物どもから遠ざけ、安全に育てられる場所を、俺のこの手で必ず見つけてみせる」
アルダシールは力強く頷き、メイファの手の上から自らの大きな手を重ねた。
その時だった。
突如として、進んでいた船の速度がわずかに落ち、船底を擦るような不気味な重低音が響いた。
「なに」
アルダシールは即座に直刀の柄に手を伸ばし、船首の欄干へと駆け寄せた。
穏やかだった海面の様子が、一瞬にして変貌を遂げていた。
東の空から差し込む朝焼けの光を受け、本来なら青く輝くはずの水面が、まるで黒墨を流し込んだかのように漆黒の斑模様を描いていたのだ。
その黒い潮脈は、船の進行方向を遮るように、巨大な大蛇の形を成してうねり流れていた。
「アル、あれは」
メイファが息を呑んだ。
「安禄山の影喰の残滓か。いや、違う」
アルダシールは目を細め、黒い潮脈の動きをじっと観察した。
地上の泥のように三人を呑み込もうと迫ってくる悪意ではない。その黒い潮脈は、まるで海そのものが巨大な生き物として呼吸し、何かを恐れてうねっているかのような、重苦しい理の歪みを放っていた。
(この海にも、世界の不具合が広がっている。大陸を蝕む呪いは、すでに海流にまで毒を撒き散らしているのだ)
血管の奥で、かすかな痛みの芽が小さく疼いた。しかし、それは地上でのような暴走する激痛ではなく、危険の存在を的確に知らせる澄んだ指針となっていた。
「アルス、起きろ」
アルダシールは声をかけ、目を擦る息子の肩を抱き起こした。
「ん、パパ。朝になったの」
「そうだ、朝だ。アルス、あの海を見ろ。お前の目には何が見える」
アルスは灰色の目を丸くし、船首から黒くうねる潮脈を見つめた。
小さな鼻をくんくんと鳴らし、少年は迷うことなく指を指した。
「あのお水、黒くて冷たいけど、怒ってないよ。あっちの深いところに、何かおっきい穴が開いてて、お水が吸い込まれてるの」
「吸い込まれている」
「うん。でもね、その穴の横に、小さくて綺麗な光の道があるよ。そこを通れば、あっちのお日様のところへ行けるよ」
アルスの指差した方向は、黒い潮脈が最も色濃く渦巻く、一見すると最も危険に見える潮の目だった。
アルダシールは迷わなかった。息子の澄んだ直感を、己の血脈の感覚以上に信頼していた。
「メイファ、舵を東南東へ切れ。あの渦の右脇を突き抜ける」
「ええ、分かったわ」
メイファが全身の力を込め、舵輪を豪快に切り切った。
西域の古い帆船は、黒い潮脈が作る不気味な波飛沫を左右に跳ね返し、朝焼けの光が射し込む東の海原へ向けて、力強く船首を突き進めていったのだった。




