蒼い秘石と地下洞の船出
暗闇の奥から吹き抜ける風は、刻一刻と湿り気を帯び、冷たい潮の香りを強く含んでいた。
足元を洗う清流は、奥へ進むごとに水深を少しずつ増し、地上の激しい泥の腐臭を完全に覆い隠している。左右の古代石造りの壁面に埋め込まれた不規則な石板からは、かすかな蒼色の光が呼吸するように規則正しく明滅し、水面と三人の濡れた影を静かに照らし出していた。
「パパ、壁のお石、お空の星みたいに光ってるね。すごくきれい」
アルスがメイファの手を小さく引っ張りながら、壁の石板に小さな手を伸ばそうとした。
「触るなよ、アルス。何が仕掛けられているか分からん」
アルダシールは直刀の柄に手を添えたまま、慎重に周囲の張り詰めた空間を探った。
(この石造りの様式、唐の建造物ではない。もっと古く、波斯や西域の地下水路に共通する古の知識によって組み上げられている。安禄山の呪詛が地上を覆い尽くそうとも、この地の底深く眠る古代の理までは侵食しきれなかったのだ)
こめかみを激しく打ち砕いていたあの偏頭痛は、完全に引き下がっていた。
かつて荒野で羊を追うだけの牧徒であった頃、理由も分からず襲われていたあの激痛。それは、世の理が歪み、邪なる気配が世界を満たした時に生じる警告だった。そして今、この清らかな水と古の光に満ちた回廊においては、彼の血脈が確かな安らぎを取り戻していたのだった。
「アル、見て。水底に何か沈んでいるわ」
メイファが足を止め、澄み切った水面を静かに指差した。
水深ふた尺ほどの水底には、白く研磨された大きな石の板がびっしりと敷き詰められていた。その表面には、先ほど旅籠で刺客が突きつけてきた不気味な蛇の紋様とは明確に異なる、優美で力強い車輪のような刻印が刻まれている。
「これは波斯の古語で誓約を意味する紋様だ。かつてこの地を訪れた我が同胞たちが、水脈を護るために刻んだものだろう」
「波斯の同胞が、こんな遠い東の地の底にまで」
メイファが感嘆の息を漏らした。
「ああ。シルクロードを渡り、海を越えてきた交易の民たちだ。時代がどれほど移り変わろうとも、彼らの遺した水脈が、巡り巡って今俺たちを護ってくれている」
三人がさらに刻限にして半刻ほど歩みを進めると、回廊の幅は徐々に広がり、頭上の天井も一気に高くなっていった。
ゴォォという低い地鳴りのような重い水音が強まり、潮の匂いが一段と濃くなる。
開けた空間に出ると、そこは廣州の港の直下に広がる巨大な天然の海蝕洞窟だった。
頭上からは豊かな地下水が滝となって滝壺へと激しく降り注ぎ、その水流が外海へと続く巨大な横穴へと合流している。そして、その広大な地下港のような洞窟の端、石造りの古い船着き場に、一隻の大きな木造船が静かに繋がれていた。
胴体が太く、高い帆柱を持つ、西域特有のダウ船の構造を残した頑丈な帆船だった。船体には古びた波斯の装飾が施され、長年の塩風に耐え抜いてきた強靭な木質が、月光の反射を受けて黒々と光っている。
「船だ。本当に船があるわ」
メイファが歓喜の声を上げた。
「待て、油断するな」
アルダシールは直刀をわずかに抜き、船の甲板と周囲の水面を見つめた。
滝壺の重い水音に混じって、どちゃりという不快な水音が水面から響いた。
外海へと続く横穴の岩肌から、黒い泥が雫のようにぽたり、ぽたりと垂れ落ちていた。地上の広場を埋め尽くしていた安禄山の影喰どもが、地下水路の防護を直接破れず、外海側の出口の岩壁へと回り込んで這い集まっていたのだ。
泥は水面に落ちるや否や、黒い毒泡を撒き散らしながら、数体の粘着質な塊となって浮き上がってきた。
「命脈の者どもめ。海へ逃がしはせん」
水面から浮き出た泥の異形が、腐敗した音声を撒き散らしながら船着き場へと這い登ってくる。
「しつこい奴らだ」
アルダシールは足元を踏み締め、立ち上がった異形へと速やかに肉薄した。
刃先の重みと筋道の正確さだけで、先頭の泥の首元を抉るように切り払う。刃に伝わる重粘な抵抗を感じ取りながら、即座に重心を翻し、二体目の胸元の核を柄頭で強力に叩き潰した。
斬撃そのものではなく、敵の構造の中心を直接破壊する立ち回り。羊を追い、猛獣の襲来と対峙してきた生々しい経験が、無駄のない動きとなって昇華していた。
メイファも素早く革袋から残りの薬草の粉末を取り出し、這い上がろうとする泥の足元へ撒き散らした。薬草の成分に触れた泥が激しく泡立ち、岩肌への吸着力を失って水壺へと崩れ落ちていく。
「アルス、メイファを連れて船に乗れ」
「パパ、僕も船を動かすのお手伝いする」
「船台のロープを外すんだ。急げ」
「うん」
アルスは弾むように石畳を走り、船着き場の太い木柱に巻きつけられた分厚い麻縄を、小さな両手で力任せに引きちぎった。
ギィィと重い音を立てて、西域の古い帆船が地下の防波堤から離れ、外海へ続く力強い水流へと乗り始める。
アルダシールは立ち塞がる最後の泥兵を力任せに水壺へと蹴り落とすと、大きく跳躍して揺れる船の甲板へと着地した。
「メイファ、舵を取れ。風が沖へと吹いている」
「ええ、任せて」
メイファが大きな木製の舵輪を握り締め、力強く回した。
船は地下の滝が流れる大洞窟を滑るように進み、漆黒の岩肌に開いた巨大な横穴へと進入していく。
暗い洞窟のトンネルを抜けた瞬間、眼前に広がったのは、満天の星空と、月光を浴びて蒼黒く輝く果てしない大広海だった。
廣州の港町は遥か後方の陸地の影となり、安禄山の放つ影喰の咆哮も、打ち寄せる激しい潮騒の音の中に完全にかき消されていった。
潮風がメイファの濡れた髪を大きく揺らし、アルスは船首の欄干に身を乗り出して、生まれて初めて見る夜の海原を目を輝かせて見つめていた。
「パパ、ママ、見て。お水が全部光ってるよ」
船首が切る波の先で、夜の海面が夜光虫の光を受けて細やかに輝いていた。
アルダシールは濡れた直刀をしっかりと鞘へ収め、甲板の上で妻と息子の肩を優しく抱き寄せた。
「俺たちは脱出したのだな」
メイファが感極まった声を漏らし、アルダシールの胸に顔を寄せた。
「ああ。だが、安禄山の追手がこれで終わるわけではない。奴の影は、どこまでも俺たちを追ってくるだろう」
アルダシールは夜空に輝く北極星を見上げた。
陸地の呪縛を離れ、広大な大海原へと踏み出した一隻の船。その揺れる甲板の上で、三人は静かに手と手を重ね合わせ、波の音と潮風の囁きを聞いていた。
己の内に流れる古の血脈と、家族を守り抜くという絶対の意思。過酷な運命の嵐を突き抜けるための航海が、今静かに始まったのだった。




