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アルダシールと銀華~千年の時空を駆ける鬼と狐の恋物語  作者: 秋津ネオ


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水底の回廊と清冽な脈動

 激しい風切り音が耳元を掠めて去り、次の瞬間、アルダシールたちの身体は冷たい水面へと鋭く飛び込んだ。


 バシャアーンと大きな水飛沫が跳ね上がり、地下空間の静寂を豪快に打ち破った。井戸の底に存在していたのは、淀んだ死体や毒の死水ではなく、地の底を途切れることなく流れる、驚くほど澄み切った地下の清流だった。深く冷たい水が、地上の泥で汚れたアルダシールたちの肌や着物の汚れを、一瞬にしてきれいに洗い流していく。


 アルダシールは水中で素早く身を翻し、メイファとアルスの体を両腕でしっかりと引き抱えて、すぐさま水面へと浮上した。


「ぷはっ、ゴホッ、ゴホッ」


 メイファが水を勢いよく吐き出し、荒い息をつきながらアルダシールの胸元にしがみついた。濡れた黒髪が彼女の細い頬に張り付いていたが、その表情に大きな怪我の兆候はない。アルスは水濡れなど少しも気にせず、楽しそうに両手で顔の水滴を拭って、ケラケラと小さな歓声を上げた。


「パパ、お水すごく冷たいよ。気持ちいい」


「二人とも、無事か。どこか打ち付けなかったか」


「ええ、私は大丈夫よ。アルダシール、あなたこそ大丈夫なの」


「問題ない。この程度の水深なら、身体を壊すことはない」


 アルダシールは足の届く浅瀬の岩棚へと二人を優しく引き上げ、自分も滑りやすい岩肌に手をかけて水から這い上がった。


 濡れた直刀を鞘ごと抱え、見上げると、はるか頭上に小さく四角く開いた井戸の枠組みが見えた。そこからは、地上を覆い尽くしていたあの黒い泥の蠢く水音も、影喰たちの気味の悪い唸り声も、何ひとつとして届かない。井戸の縁に群がっているであろう泥の兵士たちは、この地下の水路へと落ちてこようとはせず、まるで不可視の強固な壁に阻まれたかのように、地上の闇の底で足掻いているだけだった。


「本当に、泥が一滴も落ちてこないわね。どうしてなのかしら」


 メイファが濡れた着物の裾を絞りながら、不思議そうに目を丸くして周囲を見回した。


 アルダシールも濡れた着物の袖で顔を拭い、地下空間の光景に静かに視線を巡らせた。


 そこは単なる自然の洞穴や井戸の底などではなく、人の手によって極めて緻密に建造された、巨大な石造りの地下回廊だった。壁面には見たこともない古の緻密な紋様が刻まれた石板が整然と組み込まれており、その石板の目地や隙間から、かすかな蒼白い光が静かに脈動するように漏れ出している。その清浄な光と留まることなく流れる水が、地上の禍々しい安禄山の呪詛を完全に弾き返していたのだった。


「アルスが言っていた通りだったな。水ではない綺麗なものが、確かにここを流れている」


 アルダシールは膝をつき、息子の濡れた頭を優しく撫でた。


「うん、僕知ってたよ。ここ、嫌な泥の匂いが全然しないもん。すーってする綺麗な匂いがする」


 アルスは無邪気に笑い、濡れた石畳の上にちょこんと座り込んだ。


 アルダシールは己のこめかみにそっと指先を当てた。地上で脳髄を破壊するかのように激しく打ち破っていたあの酷い偏頭痛が、この地下回廊に足を踏み入れてからというもの、嘘のように引いていた。視界を覆っていた不吉な赤い明滅も消え去り、静けさと澄んだ冷気が脳の奥底まで染み渡っていくのを感じる。


(俺の血が騒いでいたのは、単に地上の邪気に対する恐れからではない。この世界に存在する正常な理と、安禄山によって歪められた理の境界に、俺の肉体が異常なほど敏感に反応していたのだ)


 彼が亡き母から受け継いだ王族の血。それは単なる身分の高貴さを示す飾りなどではなく、世界の歪みや不具合を素早く感知し、生き残るための道を無意識に指し示す、忌まわしくも絶対的な道標だったのだと、アルダシールは改めて確信した。


「アル、手を見せてごらんなさい」


 メイファが濡れずに済んだ腰の小さな革袋から、手巾を取り出し、アルダシールの肩や腕に触れた。


「地上で泥の酸に掠れた場所が、少し赤くなっているわ。でも、この地下のお水のおかげで毒気はきれいに抜けている。本当に良かった」


「かたじけない、メイファ。お前の手当てのおかげで、余計な痛みを覚えずに済む」


「お礼なんていいのよ。私たち、家族なんだから」


 妻の温かい手が傷口を優しく擦り、アルダシールの全身に満ちていた重い緊張と強張りが、氷が溶けるように解けていく。


「パパ、あっちから風が吹いてくるよ。お舟の匂いと、海の匂いがする」


 アルスが立ち上がり、地下回廊の奥、清流が流れていく暗闇の先を小さな指で指し示した。


 地下水路の壁に沿って設置された石造りの歩道は、水流と同じ方向に向かってゆるやかな下り勾配を描きながら、闇の奥へとまっすぐに伸びていた。風の通る先からは、かすかに潮の香りと、海鳴りのような低い地鳴りの響きが届いている。


「この地下回廊は、廣州の港の底、海へ通じているのかもしれん」


 アルダシールは直刀の水気を丁寧に手巾で払い、帯へとしっかりと固定し直した。


「地上の広場は泥の海と化していたが、この水路を辿れば、影喰の包囲を完全に迂回して、船の待つ場所へ出られるはずだ」


「ええ。安禄山の追手も、まさか私たちがこの古の抜け道を進んでいるとは思わないでしょうね。今頃、井戸の口の周りを探しているはずだわ」


 メイファが力強く頷き、アルスの小さな手をしっかりと握り直した。


 アルダシールは二人の先頭に立ち、湿った石畳を踏みしめて一歩を踏み出した。壁面の石板から漏れ出る静かな蒼白い光が、三人の足元を柔らかく照らし出している。


 地上で猛威を振るっていた安禄山の不吉な呪いも、この地に眠る古の記憶と清浄な流れの前には届かない。血脈の痛みを越え、世界の歪みを突き抜けた先に、三人だけの新しい足跡が静かに刻まれていった。


 水流の澄んだ音が暗闇の中でどこまでも響き渡り、三人は確かな温もりと意思を分かち合いながら、地下回廊のさらなる奥深くへと静かに歩みを進めていったのだった。 

 

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