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鬼と狐 -ハプロB51伝説  作者: 秋津ネオ


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黒海の土の匂いと、地の底に眠る牙剥く大自然

 

 井戸の底は、ただの暗闇ではなかった。

 背中から冷たい石畳に叩きつけられた瞬間、アルダシールの肺からすべての空気が弾き出された。普通の人間ならば全身の骨が砕け散り、即死していてもおかしくない高さだ。だが、彼はくぐもった呻き声を上げただけで、すぐにメイファとアルスを庇うように立ち上がった。

 彼の屈強な肉体は、黒海周辺の厳しい大地で培われたものだ。ササン朝の王族であった母が再婚した相手、つまり彼の義理の父は、その地方に古くから伝わる巨人族の末裔だった。血の繋がりこそないものの、幼い頃からその岩山のような巨大な背中を見て育ち、共に荒れ地を開墾する過酷な農作業をこなすことで、アルダシールの体には人間離れした筋力と骨格が備わっていたのだ。

 王族の血がもたらす呪われた偏頭痛を抱えながらも、彼が泥の軍勢を相手に一歩も引かず、生身で道を切り開くことができたのは、間違いなくあの無口な義父から受け継いだ強靭な肉体のおかげだった。


「怪我はないか、二人とも」


 アルダシールは暗闇の中で家族の無事を確認する。メイファの震える手と、アルスの小さな温もりが彼にすがりついてきた。どうやら致命傷はないようだ。

 ふと、冷たい風が頬を撫でた。

 見上げても、自分たちが落ちてきたはずの井戸の入り口は見えない。光が一切届かないこの空間には、清冽な冷たい空気が絶え間なく流れ続けていた。

 アルダシールは深く息を吸い込んだ。湿った土と、微かな鉄の匂いが鼻腔をくすぐる。それは彼が故郷の黒海周辺で毎日のように嗅いでいた、豊かな農地の匂いそのものだった。


「ここは、ただの地下水脈じゃない。風が抜けている。どこか巨大な空洞に繋がっているはずだ」


 彼は腰の袋から火打ち石を取り出し、布切れを巻きつけた木の枝に火を灯した。

 爆ぜるような音と共に炎が燃え上がり、周囲の闇を乱暴に退けた。そこに広がっていたのは、大理の街の地下に存在するとは到底信じられない、途方もなく巨大な自然の洞窟だった。

 天井からは無数の鍾乳石が牙のように垂れ下がり、足元には黒々とした地下川が轟音を立てて渦巻いている。川岸に広がる平坦な岩肌は、どこか見覚えのある段々畑のような形状をしており、岩の表面には青白く発光する奇妙な苔が群生していた。

 まるで故郷の原風景を、神が気まぐれに地の底へ閉じ込めたかのような異様な空間だ。


「すごい。お星さまがいっぱい落ちてるみたい」


 アルスが発光する苔を指差して声を上げた。だが、感傷に浸っている暇はない。地下川の轟音に混じって、上部からボロボロと土塊が落ちてきた。あの泥の化け物たちが、井戸の穴を塞ぐように這いずり回っている証拠だ。


「進むしかない。この川に沿って歩けば、必ず外へ通じる道がある」


 アルダシールは松明を掲げ、苔の生えた滑りやすい岩場を慎重に歩き始めた。メイファがアルスの手を引き、そのすぐ後ろを続く。

 だが、大自然は決して彼らを歓迎してはいなかった。

 数十歩も進まないうちに、足元の岩盤が不吉な音を立ててひび割れた。長年の激流に下部を削り取られ、薄皮一枚で持ち堪えていた岩の橋だ。アルダシールの巨体が乗ったことで、ついに限界を迎えたのだ。


「危ない」


 足場が崩落するより早く、アルダシールは後ろを振り返り、メイファとアルスを強引に抱き寄せた。轟音と共に彼らが立っていた岩盤が崩れ落ち、牙を剥く地下川の激流へと飲み込まれていく。

 間一髪で手前の強固な岩肌に飛び移ったアルダシールは、岩壁の鋭い突起を片手で掴み、宙吊りの状態で家族を支えていた。義父譲りの鋼のような腕の筋肉が悲鳴を上げる。

 眼下では、落ちた岩塊が白い水しぶきを上げて粉々に砕け散っていた。もし一瞬でも判断が遅れていれば、三人の命はなかった。


「パパ、手が血だらけだよ」


 アルスの叫び声に、アルダシールは痛みを誤魔化すように短く笑い返した。


「嵐の日に、羊の群れを崖から引き上げるのに比べれば軽いものだ。しっかり掴まっていろ」


 彼は血の滲む指先にさらに力を込め、家族を引き連れたまま、垂直の岩壁を這い上がり始めた。背後に迫る泥の軍勢と、足元で口を開ける激流。一難去ってまた一難の死地にあっても、彼の瞳には野獣のような鋭い闘志が宿っていた。

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