斬っても斬っても泥だらけ!
月明かりの差す港の船着き場を目指し、土煙の舞う路地を蹴って猛然と走り抜けた三人だったが、その足取りは目的地を眼前にして、突如として絶望へと遮られた。
坂道を下りきり、潮の香りが強く漂う広場へと足を踏み入れた瞬間、街道の左右に並ぶ石畳の隙間が一斉に跳ね上がったのだ。地の底から溢れ出してきた漆黒の泥が、巨大な波となって船着き場への道を完全に呑み込んだ。海へと続く目抜き通りは跡形もなく消え去り、路地を抜け出た直後の三人の足元までもが、どちゃりと不気味に沈み込んでいく。
四方八方から迫る異形の群れは、足音すら立てなかった。ただ、濡れた粘土が石畳を這いずるような、どちゃり、どちゃりという不快な水音だけが、月夜の街にねっとりと響き渡る。
「くっ、港の手前まで影喰の泥が回っていたか」
アルダシールは直刀を両手で上段に構え、真っ先に襲いかかってきた先頭の泥兵を一刀のもとに唐竹割りにした。
しかし、手応えはない。まるで熟しきった豆腐を斬ったような虚無感だけが、両腕の骨を通じて残る。左右に綺麗に両断された泥の塊は、地面に落ちるや否や、磁石のように互いの断面をくっつけ合い、一瞬にして元通りの姿となって立ち上がった。
「物理的な刃は通じないか」
アルダシールは激しく舌打ちをした。安禄山の呪いは、ただの死体泥棒ではない。この泥は、街の住人たちの絶望と恐怖を食らって動く底なしの沼だ。斬れば斬るほど、直刀の刃には泥の重い粘り気が絡め取られ、腕の振り回しそのものが露骨に鈍くなっていく。
背後でメイファが短い悲鳴を上げた。
泥の兵士の腕が鞭のように不気味に伸び、彼女の細い足首を強引に掴もうとしたのだ。アルダシールは素早く身を翻し、その腕を力任せに斬り飛ばした。跳ね飛んだ泥の飛沫が、彼の頬に飛び散る。生温かく、ひどく生臭い。かつて人間だった者たちの腐臭が、アルダシールの肺を内側から焼いた。
「メイファ、俺の背中から離れるな。アルスをしっかり抱いていろ」
「でも、これじゃあキリがないわ。あなたがいずれ力尽きてしまう」
メイファの声が恐怖と焦走で震えている。彼女の言う通りだった。いかにササン朝の技術を身につけた戦士といえど、生身の人間が持つ体力には明らかな限界がある。対して、泥の軍勢は疲労を知らず、倒されても即座に再生する。このまま石畳の上で剣を振るい続けば、半刻も経たないうちに家族全員が泥の海に呑み込まれて全滅する。
その時、こめかみの痛みが再び激しくなった。頭蓋骨の内側を重い鎚でガンガンと叩かれるような、忌まわしい偏頭痛だ。激痛に視界の端が赤く明滅し、息を吸うことすら困難になる。
アルダシールは元来、兵士でも英雄でもなく、ただの牧徒に過ぎなかった。荒れ果てた土地で羊を追い、固い土を耕して静かに生きてきた平凡な農家のはずだったのだ。
だが、彼の血管には、ササン朝の王族の愛人であった母から受け継いだ、高貴にして呪われた血脈が流れている。彼が母から受け継いだのは、王族としての栄華でも膨大な財産でもなく、この発作的な激しい痛みと、世界の不具合を感知する異常な力だけだった。
激痛に苛まれる脳裏で、アルダシールは必死に五感を研ぎ澄ませた。血走った目で周囲の石畳を見渡す。だが、どこを向けばよいのか。視界を埋め尽くすのは、うねる黒い泥、泥、泥。逃げ道などどこにも見当たらない。
その時だった。
「パパ、あそこ。あそこだけ、泥が避けて通ってる」
アルスがメイファの腕の中から小さな身を乗り出し、小さな指で広場の一点を見すえて強く指し示した。
アルダシールが速やかに視線を向ける。そこは、広場の中心にぽつんと残された、古い石造りの井戸だった。押し寄せる泥の兵士たちは、なぜかその井戸の周囲数尺だけには決して足を踏み入れようとしない。まるで、目に見えない絶対的な結界でも張られているかのようだった。
「あの中に、水じゃない何かが流れてる。すごく冷たくて、綺麗なもの」
アルスの澄み切った瞳には、大人たちには決して見えないこの世界の理の抜け道が、はっきりと映し出されていた。
「よし、あそこへ跳ぶ」
アルダシールは迷わなかった。直刀を逆手に握り直し、井戸に向かって一直線に駆け出す。
「道を開けろ、化け物ども」
彼は刀を振り回すのを完全にやめた。代わりに、己の分厚い肩と体全体を使い、立ち塞がる泥の壁に向かって全力の体当たりを敢行する。
ズブズブと泥に足を取られ、無数の生温かい手が彼の外套を引き千切ろうと群がってくる。酸を含んだ泥が肌を焼き、泥の重量が全身を押し潰そうとする。それでも彼は止まらない。
家族を死なせるわけにはいかない。その強烈な生き抜く意志だけが、彼の両足を力強く前に押し進めていた。
泥の壁を無理やり押し破り、井戸の石の縁に辿り着いた瞬間、アルダシールは背後のメイファの腰を強く抱き寄せた。
「息を止めろ」
「ええっ」
「パパ、いくよ」
深い闇が待ち受ける井戸の底へ、三人の身体は真っ逆さまに落ちていった。泥兵たちの手が届かない、地の底の冷たく静かな暗闇へと。
落下する感覚の中で、アルダシールはメイファとアルスを腕の中に強く抱き締めた。耳元を激しい風切り音が掠めていき、上の世界に残された泥の蠢く不快な水音が、みるみるうちに遠ざかっていく。
広場の井戸の口は、落ちていく三人の頭上で夜空の月影のように小さくなり、やがて完全な闇の中に呑み込まれて消えた。
水の冷気とは異なる、澄み切った古の清涼な空気が、三人全体を優しく包み込んでいくのだった。




