斬っても斬っても泥だらけ!
泥の波が押し寄せる。
四方八方から迫る異形の群れは、足音すら立てなかった。ただ、濡れた粘土が石畳を這いずるような、どちゃり、どちゃりという不快な水音だけが街に響き渡る。
アルダシールは直刀を上段に構え、先頭の泥兵を一刀のもとに唐竹割りにした。
手応えはない。豆腐を斬ったような虚無感だけが腕に残る。左右に両断された泥の塊は、地面に落ちるや否や、互いの断面をくっつけ合い、再び立ち上がった。
「物理的な刃は通じないか」
アルダシールは舌打ちをした。安禄山の呪いは、ただの死体泥棒ではない。この泥は、街の住人たちの絶望と恐怖を食らって動く底なしの沼だ。斬れば斬るほど、直刀の刃は泥の粘り気に絡め取られ、腕の動きが鈍くなっていく。
背後でメイファが短い悲鳴を上げた。
泥の兵士の腕が鞭のように伸び、彼女の足首を掴もうとしたのだ。アルダシールは身を翻し、その腕を斬り飛ばす。泥の飛沫が彼の頬に飛び散った。生温かく、ひどく生臭い。かつて人間だった者たちの腐臭が、アルダシールの肺を焼いた。
「メイファ、俺の背中から離れるな。アルスをしっかり抱いていろ」
「でも、これじゃあキリがないわ。あなたがいずれ力尽きてしまう」
メイファの声が震えている。彼女の言う通りだった。人間の体力には限界がある。対して、泥の軍勢は疲れを知らない。このまま石畳の上で剣を振るい続ければ、半刻も経たないうちに家族全員が泥の海に呑まれる。
こめかみの痛みが再び激しくなった。頭蓋骨の内側をガンガンと叩くような、忌まわしい偏頭痛だ。
アルダシールは元来、ただの牧徒に過ぎない。羊を追い、土を耕して生きてきた平凡な農家のはずだった。だが、彼の血管には、ササン朝の王族の愛人であった母から受け継いだ、高貴にして呪われた血脈が流れている。彼が母から受け継いだのは、王族としての栄華でも財産でもなく、この発作的な痛みと、世界の不具合を感知する力だけだった。
どこかに活路はないか。アルダシールは血走った目で周囲を見渡した。だが、視界を埋め尽くすのは泥、泥、泥。逃げ道などどこにも見当たらない。
その時だった。
「パパ、あそこ。あそこだけ、泥が避けて通ってる」
アルスがメイファの腕の中から身を乗り出し、小さな指で一点を指し示した。
アルダシールが視線を向ける。そこは、広場の中心にある石造りの古い井戸だった。泥の兵士たちは、なぜかその井戸の周囲数尺だけには足を踏み入れようとしない。まるで、目に見えない結界でも張られているかのようだった。
「あの中に、水じゃない何かが流れてる。すごく冷たくて、綺麗なもの」
アルスの瞳には、大人たちには見えないこの世界の理の抜け道がはっきりと映っていた。
アルダシールは迷わなかった。直刀を握り直し、井戸に向かって一直線に駆け出す。
「道を開けろ、化け物ども」
彼は刀を振るうのをやめた。代わりに、己の肩と体全体を使い、立ち塞がる泥の壁に体当たりを敢行する。泥に足を取られ、無数の手が彼の外套を引き千切ろうとする。それでも彼は止まらない。
家族を死なせるわけにはいかない。その強烈な意志だけが、彼の両足を前に進めていた。
井戸の縁に辿り着いた瞬間、アルダシールは背後のメイファの腰を強く抱き寄せた。
「息を止めろ」
深い闇が待ち受ける井戸の底へ、三人の身体は真っ逆さまに落ちていった。泥兵たちの届かない、地の底の冷たい暗闇へと。




