蛇紋の呪縛と崩落の旅籠
黒い泥が床板の隙間から泡を吹いて噴出し、旅籠の内部は一瞬で地獄絵図へと変貌した。
給仕や客たちだったものの顔面が縦に割れ、そこから無数の粘着質な触手のような泥が伸びてくる。充満していたクチナシと焼きたて小麦の香ばしい匂いは瞬時に消え失せ、吐き気を催す腐肉と硫黄の臭気が充満した。
「パパ、あいつら、顔が割れちゃった」
アルスがメイファの着物の裾を握り締めながら、灰色の瞳を鋭く光らせた。
「見るな、アルス。メイファ、俺のすぐ後ろから離れるな」
アルダシールは頭を殴られたような強烈な偏頭痛に耐えながら、直刀を構えた。こめかみの奥で血管が引きちぎれるように脈打ち、視界の端が赤く明滅している。
卓の上に置かれた一枚の黒い木札。そこに刻まれた歪んだ蛇の紋様が、まるで生きているかのように微かにうごめいて見えた。
(この偏頭痛は、単なる病ではない。俺の身体の奥深く、遠い先祖から受け継がれてきた不吉な毒が、この蛇の紋様に反応して悲鳴を上げているのだ)
「逃げられると思っているのか、アルダシール」
生気のない男が、異形と化した客たちの後ろで冷ややかに口角を上げた。男の足元からは、黒い泥が樹木の根のように這い伸び、床板を腐食させていく。
「お前たちの抗いは、最初から決められた戯れに過ぎん。血に焼き付いた呪詛からは、どれほど時を越えようと、どれほど遠くへ逃げようと逃れられぬのだからな」
「戯言を」
アルダシールの口から、低い低吟が漏れた。
「俺の生き様を、俺の家族の命を、勝手な戯れなどと呼ぶな」
アルダシールは激痛を力任せにねじ伏せ、一歩を踏み出した。
踏み込んだ足元で古い床板が激しく跳ね上がる。
前傾姿勢のまま地表を滑るように間合いを詰め、刃先を低く抑えた刺突を放つ。刃は手近な影喰の喉元を正確に貫き、そのまま引き抜きざまに隣の異形の脚部を薙ぎ払った。倒れ込む敵の体勢を利用し、柄頭で三体目の顔面を強打して後方へ弾き飛ばす。
ササン朝の宮廷騎士として体に染みついた無駄のない死角への足さばき。頭痛に視界を奪われかけながらも、肉体の記憶だけで死線を取り払っていく。
「アル、下がって。私が毒気を散らすわ」
メイファが素早く革袋から緑色の薬草の粉末を取り出し、足元へ這い寄る黒い泥に向かって撒き散らした。
粉末が触れた泥の表面が激しく泡立ち、泥の粘着性が失われてサラサラとしたただの土へと変質していく。
「助かる、メイファ」
「お礼はいいわ。でもアル、あの木札を見てから急に様子がおかしいわ。あそこに刻まれた紋様、何か知っているの」
メイファの問いに、アルダシールは刃を構え直したまま歯を食いしばった。
(過去の遠い記憶の底で、この歪んだ蛇の紋様を見た記憶がある。俺たちの家系、その起源に存在する古い呪い。それが今、安禄山の放つ影喰の力と共鳴しているのだ)
どれほど抗おうと、己の内に流れる血の記憶が、この恐ろしい運命を引き寄せている。その重圧が、アルダシールの胸を強く締め付けた。
「ハハハ。苦しいだろう、アルダシール。己の血そのものが、自分を滅ぼそうとしているのだからな」
生気のない男が指先を鳴らした。
旅籠の天井がメキメキと音を立てて崩れ落ち、二階からさらに十数体の影喰が雨のように降り注いできた。狭い店内は完全に死の密集地帯と化す。
「パパ、もう我慢しなくていい?」
アルスが前へ進み出た。
「アルス」
「僕ね、あのいじわるなおじさんの顔、すっごく叩いてみたいんだ」
五歳の少年の身体から、圧倒的な生の波動が解き放たれた。
部屋の中に満ちていた黒い毒気と腐臭が、アルスの身体から溢れ出る不可視の圧力によって一瞬で吹き飛ぶ。男が放っていた威圧感すら、アルスの持つ圧倒的な生命力の前にはかすんで見えた。
アルスが小さな右拳を固く握り締め、床に向かって無造作に叩きつけた。
ドガン。
地鳴りのような重低音が廣州の港町の一角に響き渡った。
旅籠の頑丈な木製の床と土台が木端微塵に粉砕され、二階の天井や壁までもが内側から吹き飛んだ。建物の全重量を支えていた柱が一瞬で砕け散り、巨大な旅籠そのものが豪快に崩壊を始めたのだ。
「なに」
生気のない男の顔に、初めて本当の驚愕が走った。
降り注ぐ大量の木片と土砂の中、アルダシールはすかさずメイファの細い腰を抱え込み、崩れ落ちる床の隙間から下層へと跳躍した。
「アルス、来い」
「はーい」
アルスは空中を蹴るようにして軽やかに飛び降り、アルダシールの隣へと着地した。
崩れ去る旅籠の瓦礫と、押し潰されて悲鳴を上げる影喰たちを置き去りにし、三人は路地の暗がりへと着地した。頭上からは、巨大な建物が崩壊する凄まじい響きと、巻き上がる土煙が追ってきた。
「ゴホッ、ゴホッ。アル、大丈夫?」
メイファが煙を払いながら尋ねた。
「ああ、平気だ。偏頭痛も、少し引いた」
アルダシールは刀を鞘に収め、自分の手を見つめた。
激痛は去ったが、あの黒い木札に刻まれていた歪んだ蛇の紋様の残像は、脳裏に強く焼き付いたまま離れなかった。
(俺たちの血に刻まれた呪いが何を意味しようと、俺はこの二人を連れて生き抜く。あらかじめ決められた運命など、俺の手で切り伏せてみせる)
「パパ、あっちから海の匂いがするよ。すっごく強い匂い」
アルスが崩れた路地の先、月光に照らされた狭い坂道を指差した。
坂道の向こうには、無数の船の帆柱が黒く影を落とす、廣州の広大な港が広がっていた。
「行くぞ。あの港に、俺たちの次の道がある」
アルダシールはメイファとアルスの手を強く握り締め、土煙の舞う路地を蹴って、月明かりの差す港の船着き場へと猛然と走り出した。
背後で崩れ去った旅籠の跡地から、怨嗟に満ちた影喰の咆哮が響いていたが、三人の確かな足取りを止めるものはもはや何も存在しなかった。




