花の街で、死神と一杯なんて!
鼻腔を突いたのは、沈香とクチナシ、そして焼きたての小麦の匂いだった。
死の峡谷を抜けた一家の前に現れたのは、雲南の山嶺に抱かれた街「大理」の原型ともいえる、活気溢れる交易都市だった。
「パパ、泥の匂い、もうしないね」
アルスが眩しそうに目を細める。
立ち並ぶ白い壁の家々、極彩色の布を掲げた市場、そして行き交う多種多様な民族。唐の役人もいれば、西域から来たであろう彫りの深い商人もいる。その喧騒は、つい先ほどまで死線を彷徨っていた一家にとって、あまりにも鮮やかで、残酷なほど平和に見えた。
アルダシールは、泥にまみれた衣服を隠すように、ボロボロの外套を深く羽織り直した。
「油断するな。光が強い場所ほど、影は濃くなる」
そう言いながらも、メイファの顔に久方ぶりの安堵が浮かんでいるのを見て、彼はわずかに毒気を抜かれた。
「まずは体を休めよう。あそこの宿なら、目立たなそうだ」
一家が入ったのは、街の片隅にある古びた旅籠だった。
供されたのは、香草で煮込んだ羊の肉と、冷えた果実水。飢えと疲労にさらされていた三人は、言葉を忘れたかのように、貪るようにそれを平らげた。
「おいしい。アルダシール、私たち、本当に生き延びたのね」
メイファが微かな微笑みを見せた、その時だった。
「その肉、少し塩気が足りなかったかな?」
不意に、隣の席から低く、だが耳にこびりつくような声が響いた。
そこに座っていたのは、身なりの良い、だがどこか「生気」を感じさせない男だった。男は盃を弄びながら、一度もこちらを見ることなく、ただ東の窓の外を眺めている。
「あんた、誰だ」
アルダシールの手が、無意識に机の下の刀へと伸びる。
「ただの旅人さ。お前さんたちと同じ、安禄山という名の『巨大な嵐』から逃げてきた、ただの、そう、死神の使い走りかな」
男がゆっくりとこちらを向いた。その瞳の奥には、峡谷で見た「あの泥の人形」たちと同じ、底知れぬ闇が揺らめいている。
男は無造作に、机の上に一枚の奇妙な木札を置いた。
そこには、アルダシールの家系に代々伝わり、あの忌まわしい偏頭痛とともに脳裏に浮かぶ「歪んだ蛇のような紋様」が、どす黒い漆で刻まれていた。
「休息は終わりだ。この街の美しい花の下には、お前さんたちの血を吸うために、無数の『泥』が埋まっているんだよ」
街中に、重く鈍い鐘の音が響き渡る。
それは先ほどまでの活気の象徴ではなく、一家を包囲せんとする「狩り」の合図へと変わった。
「パパ、あのおじさんの足元、花が枯れてるよ」
アルスの震える声とともに、平和なはずの宿の床から、あの不気味な黒い霧が滲み出し始めた。




