港町の残り香と黒い木札
鼻腔を突いたのは、沈香とクチナシ、そして焼きたての小麦の匂いだった。
死の平原と険しい山嶺を抜けた一家の前に広がっていたのは、南方の広大な海を目前に控え、圧倒的な熱気と色彩に満ちあふれた大港湾都市、廣州だった。
眼下に広がる港には、無数の交易船の帆柱が林立し、潮風に乗って異国の言葉が飛び交っている。立ち並ぶ白い壁の家々、極彩色の布を掲げた市場、そして行き交う多種多様な民族。唐の役人もいれば、西域から来たであろう彫りの深い商人や、さらに南の島々から渡ってきた褐色の肌の船乗りたちがひしめき合っていた。
その喧騒と熱気は、つい先ほどまで死線を彷徨っていたアルダシールたちにとって、あまりにも鮮やかで、残酷なほど平和に見えた。
「パパ、泥の匂い、もうしないね」
アルスが眩しそうに灰色の目を細め、アルダシールの着物の裾を引っぱった。
「油断するな、アルス。光が強い場所ほど、影は濃くなる」
アルダシールはボロボロになった外套のフードを深く被り直した。
(この街の賑わいの下にも、あの黒い泥の気配が潜んでいないはずがない。安禄山の目が、この交易の拠点を見落とす道理がないのだ)
だが、そう言葉では警戒しながらも、隣を歩くメイファの顔に久方ぶりの安堵が浮かんでいるのを見て、アルダシールは胸の奥の毒気をわずかに抜かれた。彼女の頬は旅の疲労で少し痩せていたが、街の香辛料の香りに鼻をくすぐらせ、ホッと息をついていた。
「まずは体を休めよう。街道の裏手にあるあの宿なら、目立たなそうだ」
アルダシールが指差したのは、市場の喧騒から一歩離れた、路地の奥に佇む古びた二層建ての旅籠だった。
案内された一階の奥まった席に腰を下ろすと、香草でじっくり煮込んだ羊の肉と、冷えた果実水が運ばれてきた。飢えと疲労にさらされていた三人は、言葉を忘れたかのように、貪るようにそれを平らげた。
「おいしい。アルダシール、私たち、本当に生き延びたのね」
果実水を飲み干したメイファが、微かな微笑みを浮かべて呟いた。
「ああ。ここから舟に乗れれば、いよいよ海を渡ることができる」
アルダシールが安堵の息を漏らそうとした、まさにその時だった。
「その肉、少し塩気が足りなかったかな」
不意に、隣の席から低く、だが耳の奥にこびりつくような気味の悪い声が響いた。
アルダシールは背筋に氷を突きつけられたような戦慄を覚え、即座に身を硬くした。
そこに座っていたのは、身なりの良い絹の衣服を着た男だった。だが、その佇まいには生きた人間特有の発汗や呼吸の温もりが一切感じられない。男は盃を指先で静かに弄びながら、一度もこちらを見ようとせず、ただ開け放たれた窓の向こうの港風景を眺めていた。
「あんた、誰だ」
アルダシールの手が、無意識に机の下に置いた直刀の柄へと伸びた。
(いつの間に隣の席に座っていた。戦士である俺の気配察知を完全にすり抜けている)
「ただの旅人さ。お前さんたちと同じ、安禄山という名の巨大な嵐から逃げてきた、ただの、そう、死神の使い走りかな」
男がゆっくりと首をこちらへ向けた。
その顔立ち自体は整っていたが、瞳の奥には光が存在しなかった。ぽっかりと空いた穴のような闇の奥で、かつて峡谷や宿場町で見かけた、あの黒い泥の人形たちと同じ不気味な呪念が揺らめいている。
「なんの用だ。俺たちに手を出せば、ただでは済まんぞ」
「物騒な言い草だな。俺はただ、届けるものを届けに来ただけだよ」
男は無造作に、油の染みた机の上に一枚の奇妙な木札を滑らせるようにして置いた。
その木札を目にした瞬間、アルダシールの脳髄を、雷が突き抜けたかのような激痛が襲った。
「くっ」
アルダシールは片手でこめかみを強く押さえ、激しく息を乱した。久しく鳴りを潜めていたあの忌まわしい偏頭痛が、激しい脈打ちとともに脳の奥底で爆発したのだ。
木札の表面には、どす黒い漆によって、一つの紋様が刻まれていた。
それは、アルダシールの血脈に深く焼き付き、遠い記憶の底で不吉にのたうつ、歪んだ蛇のような怪異な紋様だった。ササン朝の記憶とも、唐の記憶とも異なる、もっと古く暗い血の呪詛が、その小さな木札から禍々しい波動となって放たれていた。
(この紋様は、俺の我が家に代々伝わる、、、、)
「パパ、顔が痛そうなの? 大丈夫?」
アルスが心配そうにアルダシールの袖を握りしめた。
生気のない男は、アルダシールの悶絶する姿を愉しむように薄く微笑んだ。
「休息は終わりだ。この街の美しい花の下には、お前さんたちの血を吸うために、無数の泥が埋まっているんだよ」
その言葉と同時に、港町全体に重く鈍い鐘の音がゴーンと響き渡った。
それは刻を知らせる通常の鐘の音ではなかった。町中に潜む影喰の群れを一斉に呼び覚まし、アルダシール一家を包囲して狩り尽くすための、絶望の合図だった。
「パパ、あのおじさんの足元、花が枯れてるよ」
アルスの引きつった声が響いた。
男が座る卓の横に生けられていた鮮やかなクチナシの花が、一瞬にして黒く変色し、まるで燃え尽きた灰のようにボロボロと崩れ落ちていく。
それだけではない。
旅籠の古い木製の床板の隙間から、あのドロリとした不快な黒い泥と、黒い霧がモコモコと溢れ出し始めていた。周囲にいた他の客や給仕たちの動きがピタリと止まり、その顔面がメリメリと音を立てて裂け始めている。
「メイファ、アルス、俺の背後に回れ」
アルダシールは激しい偏頭痛を力任せにねじ伏せ、直刀を一気に引き抜いた。
白刃が、溢れ出る黒い霧の中で一筋の冷ややかな光を放つ。
平和に見えた港町の仮面は、たった一瞬で剥ぎ取られた。一家を追いつめる本当の恐怖と、血脈に刻まれた呪いの真実が、いま目の前で牙を剥こうとしていた。




