潮風の予感と這い寄る影
偽りの宿場町が消え去り、むき出しとなった広大な墓地を抜けてから、どれほどの時が流れただろうか。
風の匂いが、緩やかに変化し始めていた。
これまで肌を刺していた土煙の乾いた臭いの中に、微かに湿り気を含んだ塩の香りが混じり始めている。遥か東の彼方に存在する大海原が、近づきつつある証拠だった。
アルダシールは足を止め、湿った風が吹き抜ける空を仰ぎ見た。
(海か。波斯の港で見た、どこまでも広がる蒼い水面。だが、これから向かう海は、ササン朝の海ではない。異国の海だ)
胸の奥で、ササン朝の宮廷騎士であった頃の記憶が掠める。九十年前、祖国の滅亡とともに時空の歪みに呑み込まれ、唐の地に漂着したあの日の記憶だ。時代に取り残された孤独の中でアリアに出会い、そしてアリアを失い、エルマの里でメイファとアルスに出会った。
「アル、風の匂いが変わったわね。海の匂いだわ」
メイファが息子の手を引きながら、アルダシールの隣に並んだ。その表情には旅の疲れが色濃く差していたが、瞳の光だけは失われていなかった。
「ああ。廣州の港が近づいている。船を手に入れられれば、いよいよ海を渡ることができる」
「波の上の旅になるのね。アルス、海を見たことはあるかしら」
「ううん、見たことないよ。ママ、海ってなぁに? おっきな水たまり?」
アルスは灰色の瞳を輝かせ、無邪気にメイファの顔を見上げた。
「そうよ、アルス。お山よりもずっと大きな、青くて広い水たまりよ。そこを大きな木のお舟で進むの」
「へえ、楽しそう。僕、お舟をギューッて押してあげる」
「こら、舟を押したら穴が空いて沈んでしまうぞ」
アルダシールが苦笑しながら息子の頭を撫でると、アルスは嬉しそうにケラケラと笑った。
だが、そんな家族の穏やかな会話を切り裂くように、足元の土が突然不気味な振動を始めた。
地鳴りではない。地中深くで、何千何万という不快な生き物が蠢いているような、身の毛もよだつ振動だった。
「アル、下よ」
メイファが叫ぶのと同時に、アルダシールは二人を両腕で抱え込み、後方へ大きく躍り出た。
直後、彼らが立っていた地面が内側から崩落し、直径十メートルを超える巨大な垂直の穴が開いた。その穴の底から、粘着質な黒い液体とともに、異様な形をした影喰の群れが溢れ出してきた。
それは、これまでの影喰とは明らかに異なっていた。
人間の形すら保っておらず、無数の手足と骨が不規則に融合した、まるで黒い肉の塊のような異形だった。塊の表面には無数の赤黒い眼球が散らばり、一斉にアルダシールたちへと焦点を合わせた。
「命脈の種子、引き裂け、安大将軍へ、捧げよ」
異形の肉塊から、ドロドロとした黒い汁を撒き散らしながら、合成された怨嗟の声が響き渡る。
「安禄山の執念も、ここまでくるとしつこいな」
アルダシールは直刀を静かに引き抜き、正眼に構えた。
刃先が直射日光を反射し、一本の鋭い光の筋を描く。ササン朝の騎士として仕込まれた波斯剣術。その冴えは、歳月と幾多の死線を潜り抜けたことで、極限にまで研ぎ澄まされていた。
「アルス、メイファを守れ。前へ出るな」
「えー、僕もあの黒いモチモチしたやつ、叩いてみたい」
「駄目だと言ったはずだ。あの体液は強い酸だ。衣服が溶ける」
アルダシールは制すると同時に、脚力全開で地を蹴った。
前傾姿勢のまま地表を滑るように肉薄し、無数の手足が伸びてくるよりも速く、直刀を横一文字に振るった。
「波斯剣術、流影」
滑らかな一閃。
切り裂かれた肉塊の切断面から、黒い泥と大量の酸の液体が激しく吹き出した。だが、アルダシールはすでにその場におらず、敵の背後へと回り込んでいた。
「技の切れ味は冴えているが、核が一つではないな」
アルダシールは冷静に観察した。
切り裂かれた二つの肉塊は、それぞれが個別の生命体のように再び蠢き始め、切断面から新たな手足を再生させようとしていた。中央の核を潰すだけでは足りない。全身をくまなく細断し、再生の速度を上回る攻撃を叩き込む必要があった。
「アル、手伝うわ」
離れた位置から、メイファが風上に向けて革袋から赤い粉末を振り撒いた。
「これは乾燥させた強烈な塩分と薬草の粉よ。黒い泥の水分を奪うわ」
赤紫色の粉末が風に乗って舞い下り、影喰の肉塊に付着した。
瞬時に、ジュウジュウと激しい音が上がり、肉塊の表面から蒸気が立ち上った。黒い泥が干からびた粘土のように急激に硬化し、再生の動きが目に見えて鈍くなる。
「助かる、メイファ」
アルダシールはその好機を見逃さなかった。
直刀を上段に振りかぶり、己の中に眠るディーヴの覇気を刃全体へと流し込んだ。刀身が微かに青白い光を放ち、周囲の空気が重圧で歪む。
「断絶の一撃」
踏み込みとともに放たれた縦一筋の斬撃。
衝撃波が地表を深く削り取り、硬化した肉塊を縦真っ二つに叩き割った。覇気を伴った斬撃は、内部に埋もれていた無数の呪詛の核を同時に粉砕し、再生の余地を与えずに消滅させた。
肉塊は干からびた黒い砂となって崩れ去り、湿った風に吹き飛ばされて散っていった。
「ふう、手強い相手だったな」
アルダシールは刀の汚れを手巾で拭い、鞘へと収めた。
「パパ、かっこよかった。バシッて切って、砂になっちゃったね」
アルスが駆け寄ってきて、アルダシールの着物の裾を無邪気に引っ張った。
「アルス、怪我はないか」
「うん、全然平気だよ。ママの赤いお粉もすごかったね」
「ふふ、ありがとうアルス。役に立ててよかったわ」
メイファが微笑みながら、息子の汚れを優しく落とした。
アルダシールは二人の姿を見つめ、静かに息を吐いた。
迫り来る安禄山の刺客や影喰の脅威は、日を追うごとに苛烈さを増している。だが、それ以上に自分たちの家族の絆もまた、強固なものへと鍛え上げられていた。
遠くから届く潮風の香りが、少しずつ強くなっていく。
これから向かう廣州の港、そしてその先に待つ未知の海原。どんな試練が待ち受けていようとも、この家族の歩みを止めることは誰にもできない。
アルダシールは妻と息子の手を握り直し、潮風の吹く方向を目指して、確かな足取りで歩みを再開した。




