泥の楽園へようこそ、なんて御免だね
「空っぽ、か。左様。空っぽだからこそ、我が主の『呪い』を無限に詰め込むことができるのだ」
羅の嘲笑とともに、背後の霧が巨大な「狐」の形を成して躍り出た。それは怨念を核に、周囲の腐土をかき集めて作られた禍々しい泥の獣だ。
羅が錫杖を振れば、狐は咆哮を上げ、アルダシールたちの頭上から泥の津波となって降り注ぐ。逃げ場はない。足元からは再び黒い手が這い出し、生者の温もりを求めて縋り付いてくる。
「メイファ! 過去を斬れ! 今を生きるぞ!」
アルダシールの叫びが、凍りついていたメイファの心を打ち砕いた。彼女は震える手で懐から守り刀を抜き放つと、迷いを断ち切るようにその刃を自らの掌へと滑らせた。
「羅師兄、あなたの教えは忘れていない。でも、私が守るのは、今の家族よ!」
メイファが自らの鮮血を小刀に滲ませ、泥濘へと突き立てる。彼女の血が持つ強い生命力が、呪われた泥を浄化し、白く乾燥させていく。アルダシールの足を縛っていた黒い手が、断末魔の叫びを上げるように、乾いた土となって砕け散った。
「なっ!我が術を、その程度のまじないで!」
動揺した羅の隙を、アルダシールは見逃さなかった。
アルスを背負ったまま、泥を蹴って跳躍する。ササン朝から受け継がれた異国の剣技が、月光の下で銀色の円を描いた。
「おおおおおっ!」
鋭い一閃が、迫りくる泥の狐を真っ二つに裂き、そのまま断崖の上の羅へと肉薄する。羅は錫杖で防ごうとしたが、アルダシールの刃は錫杖ごと羅の胸元を深く切り裂いた。
手応えはない。やはり、泥を斬るような虚しさだ。だが、羅の顔からは「人間」の表情が消え、ひび割れた陶器のような絶望が広がった。
「パパ、今だ! あっちに道がある!」
アルスが指差す先、峡谷の行き止まりと思われた岩壁に、呪縛が解けたことで露わになった僅かな亀裂が見えた。そこを抜ければ、この死の谷を脱走できる。
「走れ、メイファ!」
背後で羅が「待て!行かせるか」と、傷口からどろりとした黒い泥を吐き出しながら崩れ落ちる。崩壊を始めた峡谷の断崖から、一家は振り返ることなく、暗い岩の隙間へと飛び込んだ。
岩肌を擦り、泥を噛みながら必死に走り抜け、視界が拓けた先。
そこには、冷たい夜明けの光に照らされた、広大な雲南の平原が広がっていた。
「逃げ切ったのね」
メイファが膝をつき、激しい息を整える。だが、アルダシールは刀を収めず、昇り始めた太陽を睨みつけた。
「いや、まだだ。安禄山の呪いは、この地の土にまで染み付いている。羅師兄をあんな姿に変えた『泥』の正体を突き止めない限り、俺たちの安息はない」
一家の旅は、ここからさらに険しさを増していく。
背中でアルスが、朝日を浴びて小さく笑った。
「パパ、あっちから、いい匂いがするよ。泥じゃない、花の匂い」
アルスの指す方角、黄金色の朝靄の向こうには、まだ見ぬ異国の街の影が、蜃気楼のように揺れていた。




