灰色の平原と偽りの宿場町
関所を抜けた先に広がっていたのは、生命の色彩を一切失った灰色の平原だった。
足元を踏みしめるたび、ひび割れた乾いた粘土質の土が鋭い音を立てて砕け、灰のような細かい塵が風に舞う。見渡す限り、生えた草木はすべて黒く枯れ落ち、倒れた大樹の幹は骨のように白く風化していた。
「パパ、靴の中に灰が入ってチクチクするよ」
アルスが立ち止まり、小さな片足を上げて靴を振った。
「来なさい、アルス。綺麗にしてあげるわ」
メイファがしゃがみ込み、手巾で丁寧に息子の足を拭う。その動作の合間にも、彼女は周囲の枯れ草に視線を走らせていた。
「アル、このあたりの土壌、すべて重金属と異界の毒で死んでいるわ。水も植物も、生き物が口にできるものは何ひとつない」
「ああ。安禄山の呪詛が、この中原の土地そのものを喰らい尽くしているのだ」
アルダシールは直刀の柄に手を置いたまま、低く垂れ込めた鉛色の空を見上げた。
(昔、俺が駆け抜けた唐の大地は、こんな荒涼とした死の世界ではなかった。豊かな絹織物と酒の香りが漂う華やかな都市が連なっていたはずだ。すべてが変まり果ててしまった)
ササン朝の滅びから逃れ、時の歪みに呑み込まれて九十年。彼が知る世界は、もうどこにも存在しない。残されたのは、手の中に残る家族の温もりと、背後に迫る無数の死の影だけだった。
そのまま半刻ほど歩みを進めた刻限、地平線の霧の合間に、不意に灯火の揺らめきが見えた。
「あら、こんな荒野に建物があるわ」
メイファが驚きに目を細めた。
近づいてみると、そこには数十軒の木造家屋が立ち並ぶ、かつての宿場町のような集落が存在していた。軒先には赤い提灯が掲げられ、香ばしい肉の焼ける匂いや、酒を交わす人間の賑やかな声すら風に乗って運ばれてくる。
「パパ、お肉の匂いがするよ。僕、お腹すいちゃった」
アルスがお腹を押さえながら、期待に満ちた目でアルダシールを見上げた。
だが、アルダシールの表情は厳しかった。
(おかしい。この死に絶えた平原の真ん中に、これほど鮮やかな生者の営みが残っているはずがない)
「メイファ、武器を隠せ。アルス、お前は絶対に手を出すなよ。俺の後ろから離れるな」
「うん、分かった」
アルダシールは家族を背後に従え、慎重に宿場町の入口へと踏み込んだ。
街道沿いには、店を開く商人や、談笑する旅人たちの姿があった。一見すると、どこにでもある平和な宿場の風景だ。しかし、アルダシールの研ぎ澄まされた戦士の五感は、強烈な違和感を捉えていた。
彼らの動きには、人間特有の呼吸の乱れや、皮膚の発汗が存在しない。笑顔を浮かべる店主の目元はピクリとも動かず、人形のように固定されたままだ。そして何より、香ばしい肉の匂いの奥底から、腐肉と黒い泥の腐臭が隠しきれずに漂っていた。
「いらっしゃい、旅のお方。遠くから大変だったでしょう。温かいお茶と肉まんじゅうがありますよ」
茶屋の店主らしき中年男が、張り付いたような笑顔で声をかけてきた。差し出された土器の湯呑みには、湯気の立つお茶が注がれている。
アルスが手を出そうとした瞬間、メイファが素早く息子の手を引き戻した。
「触ってはダメ」
メイファの細い声が、ぴんと張りつめた。
「店主さん。このお茶、何で淹れたの? 井戸の水じゃないわね。人の血と、死体の脂を煮詰めた毒水よ」
店主の微笑みが、ピタリと止まった。
次の瞬間、店主の顔面の皮膚がベリベリと音を立てて裂け、中から黒い泥と大量の百足のような虫が溢れ出した。
「察しの良い女だ。だが、気づいた時にはもう遅い」
店主の口から出たのは、合成された無数の悲鳴の混ざった声だった。
周囲にいた旅人や商人たちも、一斉に動きを止めた。彼らの皮膚が次々と破れ落ち、衣服の下から黒い泥で形成された影喰の異形たちが姿を現す。宿場町全体が、アルダシールたちを呑み込むための巨大な罠だったのだ。
「最初から生き物など一人もいなかったというわけか」
アルダシールは直刀を一気に引き抜いた。
冷ややかな白刃が、偽りの提灯の光を跳ね返す。
「メイファ、アルス、下がるな。俺の半歩後ろにつけ」
「任せて、アル。この者たちの足元、毒の胞子を撒いて動きを鈍らせるわ」
メイファが薬草袋から灰色の粉末を取り出し、風上に向かって一気に撒き散らした。粉末が空気中の毒気と同化し、迫り来る異形たちの足元を麻痺させていく。
「パパ、あっちの大きなやつ、僕が殴っていい」
「だめだと言ったはずだ。お前の拳は破壊が大きすぎる。怪我人が出る」
アルダシールは脚力を全開にし、石畳を蹴った。
一閃。
踏み込みざまに放たれた横一文字の斬撃が、先頭の異形三体を一瞬で腰から切断した。切り口から吹き出す黒い泥が、メイファの撒いた薬草の粉末と反応し、ジュウジュウと激しい音を立てて蒸発していく。
「波斯剣術、連破」
返し刀で上空からの突きを放ち、影喰の核を正確に穿つ。ササン朝の宮廷で何千回、何万回と繰り返してきた洗練された剣技。無駄のない動きで、迫り来る偽りの住人たちを次々とただの土塊へと戻していった。
だが、敵の数は無数だった。建物の屋根から、石畳の隙間から、黒い泥が無限に湧き出してくる。
「キリがないわ、アル。この宿場町そのものが、大きな呪詛の陣になっているのよ」
メイファが息を荒らげながら叫んだ。
(陣を破らねば、無限に湧き出るか)
アルダシールは視線を巡らせ、宿場町の中央に立つ巨大な火の火の火櫓を見定めた。あの場所から、濃密な呪いの波動が町全体へ供給されている。
「アルス」
「なに、パパ」
「あの大きな櫓の根元を、思い切り叩き潰せ。できるか」
アルスは灰色の瞳を爛々と輝かせ、満面の笑みを浮かべた。
「うん、任せて」
五歳の少年が地を蹴った瞬間、足元の石畳が爆発したかのように弾け飛んだ。アルスは弾丸のような速度で前線を突破し、巨大な櫓の太い柱へと肉薄した。
「えーい」
無造作に放たれた小さな右拳。
ドガンと、空気を空転させる凄まじい衝撃波が響き渡った。
太さ一メートルを超える巨大な柱が、アルスの拳が触れた瞬間に木端微塵に粉砕された。平衡を失った櫓は崩壊し、町全体を覆っていた黒い呪詛の陣が、ガラスが割れるような音を立てて木っ端微塵に砕け散ったのだった。
陣が破られた瞬間、周囲の賑やかな家屋や提灯、そして異形たちが、まるで煙のように一斉に掻き消えていった。
後に残されたのは、無数の古びた墓標が立ち並ぶ、静まり返った荒涼とした墓地だけだった。
「ふう、間一髪だったわね」
メイファが胸に手を当て、膝をついた。
アルスは崩れた木屑の上に立ち、得意げに胸を張っている。
「パパ、見た? 僕、上手にできたでしょ」
「ああ、よくやった、アルス」
アルダシールは歩み寄り、息子の泥に汚れた頭を撫でた。そして直刀を鞘へ納めると、静かに崩れ去った墓標の群れを見つめた。
(安禄山の影は、この中原の地の隅々にまで張り巡らされている。だが、俺たちの絆を断ち切ることはできない)
冷たい風が吹き抜け、灰色の塵を遠くへ運び去っていく。
アルダシールは妻と息子の手をしっかりと握り直し、静寂の戻った墓地を後にして、再び果てしない平原の奥へと足を進めた。




