異形の関所と亡霊の将
濡れた峠の急勾配を登り切った先で、冷たい雨は不意にやんだ。
だが、空が晴れ渡ったわけではない。低く垂れ込め重く蠢く灰色の雲が、頭上に広がる空を押し潰すように塞いでいた。眼前に立ち塞がっていたのは、山肌を削って強固に築かれた古代の石造りの関所だった。
かつては中原と雲南の境を分け、旅人や商隊の往来を監視していたであろう巨大な城門。しかし今、その巨躯は異様な姿へと変貌を遂げていた。
黒ずんだ石壁の各所には、まるで巨大な脈胞のように黒い泥がへばりつき、不気味にドクンドクンと脈打っている。関門の上に掲げられた唐の軍旗はズタズタに引き裂かれ、湿った風に揺れるたび、腐肉の不快な臭いを周囲に撒き散らしていた。
「パパ、あの大きな門、お家みたいだけど誰もいないね」
アルスがアルダシールの手を引っぱりながら、無邪気に指を差した。
「いや、誰もいないわけではない」
アルダシールは直刀の柄を固く握り締め、鋭い視線で門の影を見据えた。
(生きている人間の気配ではない。だが、死者特有の冷気と、安禄山の放つ禍々しい呪念が凝縮されている)
「アル、気をつけて。あの城門の周り、毒の生えた苔が一面に広がっているわ。触れれば皮膚が瞬時にただれ落ちる種類の毒よ」
メイファが薬草の入った革袋を帯から外し、警戒を強めながら囁いた。
「メイファ、お前とアルスはここで待て。俺が様子を見てくる」
「だめよ、一人で行かせるわけにはいかないわ。私たち家族でしょう」
メイファは力強く首を振り、アルダシールの隣へと並んだ。その瞳には、かつてエルマの里で怯えていた面影はなく、夫と子と共に苦難を背負う覚悟が満ちていた。
三人が石造りの門へと一歩ずつ近づいていくと、重い鉄の格子戸が、ギギギと嫌な高音を立てて勝手に開いた。
暗がりとなった門の洞窟のような通路から、甲冑を纏った男が静かに歩み出てきた。
その佇まいは、一見すると唐の国境を守る堂々たる警護の将軍そのものだった。だが、重厚な鉄の甲冑の隙間から覗く肌は、生者の肉色ではなく、乾いた土のように灰白色に乾ききっていた。さらに、その目輪には瞳が存在せず、ぽっかりと空いた黒い穴から、どろりとした黒い液体が涙のように絶え間なく滴り落ちている。
「去れ、流民ども。ここは生の領域に非ず」
将軍の口から放たれた声は、擦れ切れた古い金属が噛み合わないような、不快な響きを伴っていた。
「俺たちはこの関所を通らねばならない。道を空けてもらおう」
アルダシールは一歩も引かず、冷徹な声で応じた。
亡霊の将軍は、空洞の眼窩をゆっくりとアルダシールへと向けた。
「波斯の異形か。死に損なった憐れな亡霊め。お前が連れるその幼子、そして内に秘めし魔神の血脈。安大将軍の悲願たる偉大なる儀式のため、その身体を捧げるがよい」
「安禄山の威光など、この地では何の価値もない」
アルダシールは刃を静かに抜き放った。
白刃が放つ冷ややかな光が、暗い関所の通路を静かに照らし出す。
「戯言を」
亡霊の将軍が、腰の巨大な長剣を一気に引き抜いた。
その瞬間、関所の周囲の黒い脈胞が一斉に弾け飛び、中から十数体の甲冑を着た兵士の屍が這い出てきた。全員、将軍と同じく黒い泥に全身を侵食された、影喰の亡霊兵だった。
「囲め。命脈を叩き潰せ」
将軍の一声とともに、亡霊兵たちが一斉に襲いかかってきた。
「アルス、メイファの側を離れるな」
アルダシールは叫ぶと同時に地を蹴った。
ササン朝の宮廷で培われた一閃が、先頭の亡霊兵の胸甲ごと肉体を斜めに切り裂く。だが、斬られた傷口から飛散したのは血ではなく、粘着質な泥だった。切断された泥の胴体は、地面に落ちるや否や再び引き合い、くっつこうと蠢き始める。
(生身の人間とは構造が違う。核となる呪詛を破らねば、何度でも再生する)
「パパ、僕が助ける」
アルスがメイファの静止を振り切り、地面を蹴って跳躍した。
五歳の小さな体が風を切り、亡霊兵の頭上へと舞い上がる。アルスは小さな両拳を構えると、無造作に一体の亡霊兵の兜の上へと振り下ろした。
ドガンと、関所全体が揺れるほどの凄まじい重低音が響き渡った。
拳が触れた瞬間、亡霊兵の頭部は甲冑ごと跡形もなく砕け散り、その衝撃波は全身の泥の肉体を瞬時に粉砕して広範囲へと吹き飛ばした。再生する隙すら与えない、圧巻の破壊力だった。
「なにい」
亡霊の将軍が驚愕の声を発した。
「僕のパパに酷いことする奴は、みんなこうやって叩き潰しちゃうんだから」
アルスは着地すると、灰色の瞳をギラリと光らせて笑った。その小さな背中には、威圧的な魔神ディーヴの幻影が重なって見えた。
「アルス、よくやった。だが前に出すぎるな」
アルダシールは我が子の戦いぶりに目を見張りつつも、すぐさま身を躍らせて将軍の懐へと飛び込んだ。
亡霊の将軍は巨大な長剣を振り下ろしてきたが、アルダシールは直刀の腹でそれを滑らせるように受け流し、相手の体勢を崩させた。
(この男の胸の奥、黒く光る不吉な核がある)
アルダシールは視線で敵の弱点を見抜いた。甲冑の隙間、心臓の位置に、異様に濃密な影喰の泥が凝縮して脈打っているのを目撃したのだ。
「波斯直伝、穿ち」
踏み込んだ脚が石畳を深く削り取る。
アルダシールの直刀は、一直線の光となって将軍の胸甲の隙間を完璧に穿った。
確かな手応え。刀身が黒い核を貫通した瞬間、亡霊の将軍の口から、凄惨な叫びが上がった。
「ぐああぁぁっ。安大将軍、、、我らの念は、、、滅びぬ」
将軍の全身から漆黒の煙が噴き出し、甲冑を残してその肉体が黒い砂となって崩れ去った。核を失った残りの亡霊兵たちも、糸が切れた人形のように泥の塊となってその場にへたり込み、動きを止めた。
静寂が、再び関所に戻ってきた。
「ふう、冷や冷やさせないでよ、二人とも」
メイファが安堵の吐息をつきながら、駆け寄ってきた。彼女は薬草の粉末を手のひらにとり、アルダシールとアルスの体にさっと振りかけて毒気を払った。
「助かった、メイファ」
「うん、ママのこれ、良い匂いがする」
アルスが鼻をくすぐらせて笑った。
アルダシールは直刀の泥を丁寧に拭い、鞘へ収めた。
打ち倒した亡霊将軍の向こう側、開け放たれた関所の巨大な門の先には、これまで見出してきた暗い山道とは打って変わった景色が広がっていた。
そこにあったのは、見渡す限り草木が枯れ果て、灰色の土が広がる膨大な中原の平原だった。遠くの地平線には、不気味に渦巻く黒い雲が立ち込めており、これから進むべき道のりが決して生半可なものではないことを無言で物語っていた。
「行くぞ。この関所の先が、本当の戦場だ」
アルダシールは息子の小さな手を握り締め、メイファと顔を見合わせた。
三人は固く繋いだ手を離さぬまま、静まり返った異形の関所を後にし、果てしない灰色の平原へと足を踏み出したのだった。




