濡れた峠の異形
原生林の濃密な生い茂りは、山嶺に近づくにつれてゴツゴツとした岩肌へと姿を変えていた。
降り続く冷たい細雨が、アルダシールの肩を叩き、古びた衣服を重く湿らせていく。足元の粘土質の泥は一歩踏み出すごとに不気味な音を立てて靴底を放さず、歩行の体力を容赦なく削りとっていた。
「ママ、お腹すいた。ここ、ヘビさんの匂いがするよ」
メイファの着物の袖を引っ張りながら、アルスが指を指した。
「ヘビさん? アルス、どこにいるの」
「あそこの大きな岩のうしろ。すっごく大きくて、腐った魚みたいな匂いがするの」
アルスは灰色の瞳を輝かせ、気味の悪い言葉を事もなげに口にした。
アルダシールは立ち止まり、直刀の柄に手をかけた。
(五歳になったこの子の感覚は、すでに人間を超えている。暗闇や霧の奥に潜む異形の気配を、匂いとして捉えているのだ)
「メイファ、息子の後ろへ下がれ。雨で足元が滑る」
「ええ、分かったわ。アル、あなたも気をつけて。このあたりの植物、葉の裏が黒く変色しているの。普通の山の雨じゃないわ」
メイファが足元の羊歯の葉を指差した。指先に付着したのは、雨水ではなく、かすかに油分を含んだ黒い液体だった。
「ただの雨ではないな。影喰の毒が、この山の水系そのものを侵食している」
アルダシールが呟いた、その瞬間だった。
ズズズと、地鳴りのような重低音が響き、アルスが指差した巨大な岩が内側から弾け飛んだ。
飛び散る岩片の煙の中から現れたのは、巨大な大蛇の形をした異形だった。だが、ただの大蛇ではない。鱗の隙間からどろりとした黒い泥が溢れ出し、頭部には何十もの人間の目が不規則に埋め込まれ、一斉にギョロギョロと瞬きを繰り返していた。
「ひっ」
メイファが息を呑み、思わず後ずさった。
大蛇は人間の悲鳴を継ぎ接ぎしたような気味の悪い音声を口から撒き散らしながら、アルダシールたちに向かって巨躯を揺らして滑り出してきた。その巨体が一運動するたびに、周囲の木々が圧し折られ、黒い毒気が周囲に充満していく。
「パパ、あれ、僕が殴ってきていい?」
アルスが無邪気に一歩前へ出ようとした。
「待て、アルス。調子に乗るなと言ったはずだ」
アルダシールは息子の肩を大きな手で力強く掴み、押し留めた。
「相手の毒気が強すぎる。お前が素手で触れれば、肉は無傷でも毒が体内に入る可能性がある。下がるんだ」
「でも、パパ」
「聞くんだ、アルス」
アルダシールの鋭い一言に、アルスはおとなしく口をつぐんだ。
アルダシールは直刀をゆっくりと引き抜いた。雨を弾く刃先が、冷たく冴え渡る。
九十年前、ササン朝の宮廷騎士として鍛え上げられた波斯の剣技。それに加え、この地に流れ着いてからの逃避行で培った、生死の境を切る実戦の冴え。
(敵の狙いは、アルスの体内にある血脈だ。ならば、その本尊へ近づかせるわけにはいかない)
大蛇が巨大な顎をカッと開き、黒い毒液の塊を噴射してきた。
「甘い」
アルダシールは重い足場を苦にすることなく、横跳びに跳躍した。毒液が着弾した岩場が、ジュウジュウと凄まじい音を立てて溶け落ち、酸の白い煙が立ち上る。
空中で体制を整えたアルダシールは、着地と同時に泥を蹴り上げた。
「波斯剣術、断空」
踏み込んだ一歩が、濡れた岩盤を木端微塵に砕く。
大蛇の側面へと肉薄したアルダシールは、刀身に己の覇気を力任せに込め、横一文字に刃を走らせた。
銀色の閃光が、大蛇の胴体を斜めに真っ二つに切り裂く。
「ギシャアァァァっ」
無数の人間の声が混ざり合った断末魔が響き渡った。切断面から溢れ出したのは赤い血ではなく、ドロリとした大量の黒い泥だった。泥は大地に触れた瞬間、激しい熱を発して蒸発し、周囲の霧と同化していった。
大蛇の巨躯が、ガタガタと崩れ落ちてただの土の塊へと戻っていく。
「アル、すごいわ。一撃で」
メイファが胸を撫でおろし、駆け寄ってきた。
「油断はできない。この山全体が、すでに影喰の巣窟と化している。山頂の関所に辿り着くまでに、あとどれほどの怪物が現れるか分からない」
アルダシールは直刀の血を手巾で静かに拭い、鞘へと収めた。
「パパ、僕も手伝いたかったな」
アルスが少し不満そうに唇を尖らせていた。
「お前の力は最後のきり札だ。安易に見せるものではない。分かったな」
「はーい」
アルスは素直に頷くと、メイファの手を再びぎゅっと握り返した。
アルダシールは空を見上げた。厚い雨雲の隙間から、わずかにのぞく歪んだ月光が、湿った山道を冷たく照らし出している。
この濡れた峠の先には、唐の西域へと続く古代の関所が存在するはずだった。だが、そこに待っているのが生きた人間か、それとも黄泉の国の住人かは、まだ誰にも分からない。
足元のぬかるみを踏み締めながら、三人は黙々と山頂を目指して歩みを再開した。雨音だけが、静まり返った山肌に寂しく響き続けていた。




