破砕される死の檻
踏みしめる土の感触さえ、どこか現実味を欠いていた。
一歩を踏み出すたびに、視界を覆う深い霧が左右に裂け、通り過ぎた先から世界が闇へと塗り潰されていく。まるで自分が歩くことでしか、この世界の景色が描かれないような奇妙な違和感が、アルダシールの肌を冷たく撫でていた。
(この世界は、何かが歪んでいる。俺が九十年の時を飛び越えたことも、アリアの魂が飛翔したことも、すべて何者かの手の上で踊らされているような感覚だ)
アルダシールは直刀の柄に手を置いたまま、先頭を歩いていた。背後ではメイファがアルスの小さな手をしっかりと握り締め、警戒を怠らずに周囲を見回している。
雲南の原生林は、昼なお暗い。巨大な羊歯植物と巨大な古木が鬱蒼と生い茂り、生者の気配を完全に遮断していた。
その時、前方の茂みが揺れた。
風もないのに樹々の葉がざわめき、霧の奥から静かに一人の男が歩み出てきた。男は唐の絢爛な官服を纏っているが、その佇まいは不気味そのものだった。体の輪郭が細かく揺らぎ、まるで背景の闇と溶け合っているかのように不鮮明なのだ。
「そこまでだ、ササン朝の生き残り」
男の声は、まるで井戸の底から響いてくるように低く乾いていた。
「安大将軍の命により、お前たちの命脈をここで絶つ。その子供の血は、我が主の悲願たる不老の鍵となる」
「安禄山の刺客か」
アルダシールは二人の前に躍り出ると、直刀を横一文字に構えた。
「死に損ないめ。九十年の時を盗んだ罪人アルダシールと呼ぶ男が、そう簡単に首を差し出すと思うか」
官服の男は冷たく微笑むと、細い指先をパチンと鳴らした。
次の瞬間、アルダシールたちの頭上から、一斉に銀色の糸が降り注いだ。
月光を跳ね返す蜘蛛の糸のように美しい糸だったが、それが触れた大樹の幹は、まるで豆腐でも切るように容易く真っ二つに叩き切られた。それらは一瞬にして一家の周囲を網の目のように囲み、逃げ場のない完璧な死の檻を形成したのだ。
「これは」
アルダシールの脳裏に、5年前の惨劇が鮮烈に蘇った。
(あの夜と同じ技だ。アリアを追い詰め、その命の灯火をすり減らさせた、あの銀の糸)
逃避行の果て、アリアはこの恐ろしい糸に全身を切り刻まれ、絶望の中で息絶えたのだ。彼女の胸元から白い光、銀華が立ち上がり、魂を抱いて東の空へ昇っていったあの冷たい夜。アルダシールの腕に残されたのは、急速に冷えていく愛する少女の亡骸だけだった。
怒りと絶望で、アルダシールの全身の血が激しく逆流した。こめかみの奥で、耐え難い激しい偏頭痛がドクンドクンと脈打ち始める。
「よくも、、、アリアをっ!」
「パパ、下がってて」
暗い情念に呑まれかけたアルダシールの耳に、無邪気な息子の声が届いた。
アルスがメイファの手を振り払い、トコトコと前へ歩み出たのだ。五歳の少年は、死の威圧感を放つ銀の糸の檻に向かって、何の迷いもなく小さな右手を伸ばした。
「アルス、触るな。手が飛び散るぞ」
アルダシールが叫んだが、すでに遅かった。
アルスの小さな掌が、触れるものすべてを断ち切る殺戮の銀糸に直接触れた。
本来なら、指が弾け飛び、腕が切り落とされるはずだった。だが、起きた現象は全く逆だった。
アルスの掌が触れた瞬間、銀の糸はまるで燃え尽きた灰のように黒く腐敗し、ボロボロと音を立てて砕け散ったのだ。
「なに」
官服の刺客の顔が、初めて驚愕に歪んだ。
「死の糸を、素手で腐れ落ちさせたというのか。その幼子の中に眠る力は、一体」
「パパ、この糸、ちっとも痛くないよ。カサカサしてて、つまんない」
アルスは退屈そうに首を傾げると、崩れ落ちた糸の隙間を通り抜け、官服の男に向かって一直線に走り出した。
「アルス、待ちなさい」
メイファの制止も耳届かない。五歳の子供とは思えぬ異常な速度。それは地を駆けるというより、空間の物理法則を無視して、一瞬で距離を詰めるような身のこなしだった。
刺客の男は慌てて懐から不気味な文様が刻まれた符呪を取り出し、宙へ投げつけた。
「降臨せよ、影喰の群れよ」
符呪が黒い炎を上げて燃え尽きると、男の背後の影から、さらに十数人の黒い影が這い出してきた。生者の形をした、歪んだ影の怪物たちだ。そのうちの一人が、巨大な大鎌を振りかざし、襲いかかるアルスの頭上へ振り下ろした。
「死ね、鬼の子よ」
「えーい」
アルスは避けようともせず、無造作に小さな右拳を突き出した。
空気が爆ぜる凄まじい衝撃音が、原生林の静寂を木端微塵に粉砕した。
大鎌を振り下ろした影喰は、アルスの拳が直接触れることすらなく、解き放たれた空気の圧力だけで上半身を丸ごと削り取られた。断末魔すら上げられず、黒い霧となって空気中に拡散していく。
「バカな、一撃で影喰を砕いたというのか」
刺客の男が後ずさった。その顔には、先ほどまでの余裕など欠片もなかった。
アルスは無傷のまま立ち止めると、官服の男を見上げて無邪気に笑った。
「ねえ、叔父さん。次はどの叔父さんの番なの。僕、もっと遊びたいな」
純粋無垢な仕草と声。だが、その背後に透けて見えるのは、底知れぬ暴力の魔神ディーヴの影だった。刺客たちはその圧倒的な生の波動に呑まれ、恐怖で戦慄いていた。
「狂っている。この親子は全員、理の外側にいる」
男が再び符呪を構えようとした瞬間、アルダシールの身体が風を切った。
「五年前は守れなかった。だが、今は違う」
アルダシールの抜いた直刀が、薄暗い森の中で黒く光った。
九十年の時を飛び越え、アリアを失った絶望を越えて磨ぎ澄まされた、一筋の閃光。
一閃。
刺客の男の手首が、符呪ごと宙を舞った。遅れて激痛が男を襲う。
「あぐあぁぁっ」
「さようなら、悪い叔父さん」
すかさず肉薄したアルスが、無造作に男の胸元へ小さな掌を押し当てた。
二度目の衝撃波。官服の刺客は全身の骨を砕かれ、そのまま森の奥へと吹き飛ぶと、動かなくなった。残された影喰たちも、主を失ったことで黒い泥となって地面へ溶けて消えていった。
「パパ、倒したよ」
アルスが返り血ひとつついていない手を見せながら、嬉しそうに駆け寄ってきた。
アルダシールは刀を納めると、息子の頭を静かに撫でた。
「よくやった、アルス。だが、油断するな」
アルダシールは周囲の静まり返った森を見渡した。
戦闘の痕跡であるはずの倒木や砕けた石が、まるで幻だったかのように、白い霧に包まれて徐々に元通りになっていくのが見えた。
(逝きつく先は、黄泉の国か)
アルダシールの口から、冷たい残響のような言葉が漏れた。
この世界そのものが、誰かが作り出した偽りの箱庭なのではないか。自分たちはただ、巨大な運命の盤面の上で動かされている駒に過ぎないのではないか。そんな不気味な違和感が、胸の奥で沈殿していた。
「アル、行きましょう。ここは長居する場所ではないわ」
メイファが安堵の息を吐きながら、アルダシールの腕にそっと触れた。
「ああ。東へ行くぞ」
息子の冷たくも力強い手を引き、アルダシールは再び歩き出した。
アリアの魂が昇っていった、静寂の空の先へ。背後で、ついさっきまで戦っていた森が白い霧の中に完全に没し、後にはただ静寂だけが遺されていた。




