雲南の夜は、生き物の気配がしない
踏みしめる土の感触さえ、どこか現実味を欠いていた。歩く先から世界が描かれ、通り過ぎた先から闇がすべてを塗り潰していく。
森の奥から、一人の男が現れた。
唐の官服を纏っているが、その輪郭は絶えず細かく震え、背景の闇と溶け合っている。
「アルダシール。九十年の時を盗んだ罪人よ」
男が指を鳴らす。
一瞬で、無数の銀色の糸が一家を囲んだ。月光を弾く蜘蛛の糸。触れるものすべてを断つ、死の檻だ。
「また、これか」
アルダシールは直刀の柄に手をかけた。
脳裏に、五年前の記憶が鮮烈に蘇る。
あの日、アリアはこの銀の糸に追い詰められ、命の灯火をすり減らしていた。
逃避行の果て、彼女が力尽き、その胸元から白い光――銀華が立ち上がったあの夜。銀華がアリアの魂を抱いて空へ昇っていくのを、アルダシールはただ見上げることしかできなかった。腕の中に残されたのは、急速に冷たくなっていく、ただのアリアの亡骸だった。
「パパ、下がってて」
アルスの声が、過去の呪縛を断ち切った。
五歳の息子は、無造作にその死の糸を掴んだ。
本来なら、指が飛び、腕が裂けるはずの衝撃。だが、アルスの掌が触れた瞬間、銀の糸は黒く腐り、ボロボロと崩れ落ちた。
「なっ!? 銀華の力が、なぜその稚児に!」
処刑人の顔が驚愕に歪む。
男の背後から、さらに十数人の黒い影が這い出してきた。安禄山が放った、生者の形をした「影喰」の群れだ。
「アルス、メイファを連れて先へ行け」
「嫌だ。パパをいじめるやつは、僕が直してあげる」
アルスの瞳の中に、一瞬だけ、かつてのアリアが見せたような「銀色の輝き」が宿った。
それは慈悲も怒りもない、ただ「邪魔なものを消し去る」という無垢な意思。
「メイファ、動くな」
アルダシールが制する。
アルスが地を蹴った。
五歳の子供とは思えぬ速度。いや、それは移動というより、空間のこちら側からあちら側へ、物理の理を無視して「跳んだ」ようだった。
一人の影喰が、アルスの頭上から大鎌を振り下ろす。
アルスはそれを避けようともせず、ただ小さな拳を突き出した。
ドォンッ!
衝撃が森を震わせた。
鎌を振るった男は、上半身を丸ごと消失させ、霧のような黒い塵となって霧散した。
「次は、おじさんの番?」
アルスが、官服の男を見上げて首を傾げる。
その純粋な仕草に、処刑人は後退った。
「怪物め、安禄山様が仰っていた通りだ。お前たちはこの世の毒。生かしてはおかぬ!」
男が懐から、不気味な文様が刻まれた符呪を取り出した。
それを宙に投げた瞬間、森の木々が生き物のように蠢き、アルダシールたちを押し潰そうと迫り来る。
「五年前は、守れなかった」
アルダシールがようやく刀を抜いた。
鞘から放たれた刃が、月光を吸収して黒く光る。
「だが、今は違う」
一閃。
迫り来る木々が、目に見えない圧力によって粉砕された。
それは剣技ではない。九十年の時間を飛び越えた男の、この世の理に対する反逆の意志だ。
アルスがその隙を突いて、官服の男の喉元に肉薄した。
「さよなら」
二度目の衝撃。
処刑人は、断末魔の声も上げられず、塵となって消えた。
「パパ、直してあげたよ」
アルスが、返り血一つない手で笑う。
「逝きつく先は、黄泉の国か」
アルダシールは、ふと口をついたその言葉を噛み締めた。
どこか別の、遠い場所から響いてきたような冷たい残響。
この世界が偽りであり、自分たちはただ踊らされているに過ぎないのではないか。そんな底知れぬ違和感が、影の消えた森に沈殿していた。
「パパ? どうしたの?」
「何でもない。行くぞ、アルス」
アルダシールは、息子の冷たい手を引き、再び歩き出した。
東へ。
アリアの魂が昇っていった、あの静寂の空の先へ。
背後で、戦闘の痕跡ごと森が消え、後にはただ、何も描かれていない白い霧だけが残された。




