黄泉路の始まり
エルマの里を囲んでいた岩場をようやく抜け出たとき、アルダシールは一度だけ足を止め、振り返った。
眼下に広がる谷の底、湿った深い霧の向こうに、かつて5年間を過ごした箱庭のような集落がかすかに見えていた。だが今や、その集落全体が黒い泥に覆われ、静かに没落しつつあるのが分かった。
「パパ、みんな怒ってたね。僕たちに石、投げてたよ」
アルスがアルダシールの着物の裾を引っ張りながら、不思議そうに首を傾げた。その顔や腕に付着していた黒い泥の汁は、いつの間にか熱を放って乾燥し、ボロボロと白い粉となって剥がれ落ちていた。
「気にするな、アルス。彼らは変わることを恐れているだけだ」
アルダシールは息子の頭に大きな掌を置き、乱雑に撫でた。
「変わらないものなど、この世には存在しない。動かない沼の水が、自分たちを腐らせていくことにも気づかず、他者を責めることでしか生きていけない者たちだ。お前が気にする必要は一切ない」
「うん。僕、パパとママと一緒にいられれば、それでいいや」
アルスは屈託のない笑顔を見せると、前を走るメイファのもとへと駆け寄っていった。
二人の前方に広がるのは、どこまでも続く雲南の原始の深い森林と、その先に延々と広がる中華の広大な大地だった。
だが、肌を撫でる風は驚くほど冷たく、不気味な気配を孕んでいた。生者の世界と死者の世界の境目が、まるで薄い紙一枚隔てただけのようにあやふやになっている。
「アルダシール。本当に行くのね、日本へ」
メイファが歩調を緩め、並んで歩くアルダシールを見上げた。
「ああ。何故かは分からない。だが、この胸の奥が、ずっと東に向かって激しく騒いでいるんだ」
アルダシールは自分の胸元、ササン朝の紋様が刻まれた服の上から手を当てた。
アリアの魂を抱いて東へ飛び去った白い狐、銀華。そして、あの雪山で出会った老人ボォが語っていた失われた民の伝説。すべての伏線が、東の果てにある島国、日本へと向かって一直線に伸びている。
(そこに何があるのか。アリアの魂があるのか。それとも、俺たちの血脈にかけられた呪いの答えがあるのか)
答えを確かめるためには、歩みを進める以外に道はなかった。
山道を一刻ほど歩いた頃、林の切れ目で突然、殺伐とした気配が漂った。
ガサリと密林が揺れ、道端の巨木のかげから十数人の男たちが躍り出てきた。皆、粗末な革の鎧を身に纏い、錆びついた大刀や弓矢を手にしている。この山域を根城にする、性質の悪い野盗の一団だった。
「ひひっ。止まれ、旅の者」
先頭に立つ、前歯の欠けた大男が、意地汚い笑みを浮かべながら大刀を肩に担いだ。
「こんな山奥に、上等な衣服を着た巨漢と、極上の女、それにガキか。ついてるぜ。おい、手前たちの身包みを剥いで置けば、命だけは助けてやってもいいぞ。もちろん、その綺麗な女は俺たちの砦でかわいがってやるがな」
野盗たちが一斉に卑俗な下品な笑い声を上げた。
メイファが即座にアルスを自分の背後に隠し、腰の薬包に手を伸ばす。
かつてのアルダシールなら、無用な殺生を避けるため、言葉で引き下がるよう冷静に交渉を試みたかもしれない。あるいは、金を差し出してやり過ごしただろう。
だが、いまの彼は違っていた。
ササン朝の全盛期を駆け抜け、九十年の時空を飛び越え、さらにアリアを失った絶望の底から生還した戦士の魂が、完全に覚醒していた。
「パパ、このおじさんたちも、さっきの泥んこなの?」
アルスがメイファの背中から顔を出し、無垢な瞳で尋ねた。
「いや。これはただの、中身の腐った人間だ」
アルダシールは刀を抜くことさえしなかった。
ただ、静かに前へ一歩踏み出した。
その瞬間、周囲の空気が一変した。
ドカンと、不可視の衝撃波が周囲の空間を押し潰したかのような錯覚が走った。アルダシールの全身から放たれたのは、数々の戦場で無数の命を刈り取ってきた者だけが纏う、本物の殺気だった。
風がピタリと止まり、樹上で鳴いていた小鳥たちが一斉に悲鳴を上げて空へ飛び去った。
「ヒッ」
前歯の欠けた野盗の首領が、喉からひきつった悲鳴を漏らした。
彼らの視界に映っていたのは、単なる背の高い大男ではなかった。世界を丸ごと呑み込もうとする、漆黒の巨大な魔神の幻影だった。
手にした大刀がガチガチと激しく震え、指から滑り落ちて泥の上に落下する。
「どけ。俺たちの旅を邪魔する者は、誰であろうと容赦はしない」
アルダシールの低く冷たい声が、男たちの脳髄を直接揺さぶった。
「ひ、ひぃぃぃっ。出たあぁぁっ。化け物だあぁっ」
「逃げろ。食われるぞ」
野盗たちは戦うどころか、武器を投げ捨て、自らの足がもつれそうになりながら、蜘蛛の子を散らすように密林の奥へと逃げ去っていった。たった数秒の出来事だった。
「わあ、パパかっこいい。みんな逃げてっちゃった」
アルスが手を叩いてはしゃいだ。
アルダシールは微かに口角を上げると、静かに息を吐き出した。
「行くぞ、東へ。この道の先に、俺たちが逝きつくべき場所がある」
冷たい山風が三人の背中を押し、未知なる東方への、黄泉路にも似た過酷で美しい旅路が本格的に始まった。




