箱庭の崩落 逝きつく先は黄泉の国か?
爾瑪の里を囲む峻険な岩場を越えたとき、アルダシールは一度だけ足を止め、振り返った。
谷の底、深く垂れ込めた霧の向こうに、昨日まで「安住の地」だと思い込んでいた小さな集落が、まるで箱庭の底に沈む残骸のように見えた。
「パパ、みんな怒ってたね。石、投げてた」
アルスが、父の大きな手を握りながら無邪気に言った。その小さな掌には、先ほど泥の怪物を引き裂いたときの名残か、まだ微かな熱が宿っている。
「気にするな、アルス。彼らは変わることを恐れているだけだ。動かない沼の水が、自分たちを腐らせていることにも気づかずにな」
アルダシールの言葉は、自分自身にも向けられていた。
九十年の時間を飛び越え、五年前のアリアの死に絶望し、この里で「農夫」という役を演じていた自分。だが、あの泥の臭いがすべてを終わらせた。いや、止まっていた時計の針を、何者かが無理やり動かしたのだ。
目の前に広がるのは、雲南の原生林と、その先に続く広大な唐の国土。
だが、里を一歩踏み出した瞬間に肌を撫でた風は、驚くほど冷たく、生者の世界のそれとは思えなかった。それは、あの夜の山中でアリアを連れ去った「銀華」が放っていた、あの異界の気配。
「アルダシール、、、、本当に行くのね、日本へ」
メイファが、背負い袋の紐を強く握り締めながら隣に立った。彼女の瞳には不安と、それ以上の決意が宿っている。里の掟を捨て、未知の世界へ踏み出す恐怖を、彼女は懸命に抑え込んでいた。
「ああ。何故かはわからない。だが、この胸の奥が、ずっと東に向かって騒いでいるんだ」
それは理屈ではなかった。心臓の鼓動が、東を向くたびに、まるで誰かに中を掻き回されるように激しく打つ。自分が何者で、どこへ行くべきか。その答えが、遥か東の果てに待っている。その確信は、もはや希望というよりは、逃れられない「呪縛」に近いものだった。
一刻ほど歩いた頃、森の切れ目で、一団の野盗に遭遇した。
里を追い出されたばかりの「獲物」を狙っていたのか、それとも偶然か。十人ほどの薄汚れた男たちが、抜身の刀を手に、下卑た笑いを浮かべて道を塞ぐ。
「おいおい、いい女とガキを連れてるじゃねえか。里を捨てたなら、その荷物も女も、俺たちが有効活用してやるよ」
リーダー格の男が、唾を吐きながら一歩前に出る。
かつてのアルダシールなら、静かに交渉を試みたかもしれない。だが、今の彼は違う。記憶と共に、西域の戦場で恐れられた「鬼神」の魂が、完全に戻っていた。
「パパ、このおじさんたちも、泥なの?」
アルスが首を傾げて尋ねる。
「いや。これはただの、腐った人間だ」
アルダシールは刀を抜くことさえしなかった。
だが、彼から放たれた殺気の「圧力」だけで、周囲の空気が一瞬で凍りついた。森の鳥たちが一斉に飛び立ち、風が止まる。
男たちの笑い顔が、恐怖で引き攣る。
彼らが見たのは、一人の男ではない。自分たちを丸ごと飲み込むような、底知れぬ巨大な「闇」そのもの。この男の後ろには、現世ではない「黄泉の国」の入り口が口を開けている。そう直感させるほどの不気味さだった。
「どけ。俺たちの旅を邪魔する者は、誰であろうと容赦はしない」
アルダシールが静かに一歩踏み出した瞬間、野盗たちは悲鳴を上げて四散した。戦うまでもない。圧倒的な存在の格差。里という「箱庭」を出たことで、アルダシールという存在の輪郭が、人間を超えた何物かへと変質し始めていた。
「わあ、パパかっこいい! みんな逃げてった!」
はしゃぐアルスを見て、アルダシールは微かに口角を上げた。
追放された。居場所を失った。
世間的にはそう見えるだろう。だが、今、この胸を占めているのは、九十年ぶりに味わう、震えるような高揚感と、そして、どこまで行っても「誰かの掌の上」から逃れられないという、底知れぬ違和感だった。
「行くぞ、東へ。この道の先に、俺たちが逝きつくべき場所がある」
冷たい風が三人の背中を叩き、未知なる東方への、黄泉路にも似た旅路が始まった。




