時空の歪みと覚醒の刃
エルマの里を背にし、湿った濃い霧の中をアルダシールたちは突き進んでいた。
背後からは、里を飲み込もうとする黒い泥のうねる音と、逃げ惑う村人たちの阿鼻叫喚が、霧にこもって聞こえてくる。だが、アルダシールは一度も振り返らなかった。隣を走るメイファの表情は硬く、その瞳には拭いきれない罪悪感が滲んでいる。彼女の背には、泥にまみれたアルスがしっかりと掴まっていた。
「アル、大丈夫。あの子、泣いていないわ」
メイファが、自分自身に言い聞かせるように呟いた。
「ああ。だが、気配がおかしい」
アルダシールは直刀を握り直し、周囲の霧を睨みつけた。
視界は最悪だ。数メートル先も見通せない灰色な世界。しかし、戦士としての本能が、霧の奥に潜む無数の禍々しい気配を敏感に察知していた。それはエルマの里を襲った泥の怪物、影喰の群れだ。奴らは里を破壊するだけでなく、アルスの放つ強烈な生の波動に引き寄せられ、執拗に追ってきているのだ。
(メイファの言っていた薬、あの子の力を抑える毒か)
走るアルダシールの脳裏に、先ほどのメイファの告白が蘇る。
5年間、アルスが普通の子として生きてこられたのは、メイファが毎日飲ませていた薬草茶のおかげだった。ディーヴの血がもたらす破壊的な怪力と暴走する衝動を、薬の毒で殺し続けていたのだ。だが、その封印は今、完全に解けようとしていた。影喰の呪詛に刺激され、アルスの肉体の中で眠っていた魔神が、産声を上げようとしている。
突然、前方の霧が不自然に歪んだ。
グチャリと嫌な音を立てて、黒い泥の塊が路面に這い出てくる。それは里で見たちっぽけな泥の波ではない。人間の数倍はある巨大な質量を持った、泥の巨像だった。
「ひっ」
メイファが息を呑み、足を止めた。
泥の巨像は、目も鼻もない顔をアルダシールたちへ向け、地鳴りのような咆哮を上げた。その咆哮に呼応するように、左右の霧からも続々と影喰の泥が這い出してくる。完全に包囲されたのだ。
「メイファ、アルスを守れ。俺が道を切り開く」
アルダシールは直刀を正眼に構え、一歩前に出た。
(俺が拾われてから九十年、ササン朝が滅びてから九十年の時が経った。俺はその空白を、この腕で埋めなければならない)
アルダシールの胸の中で、冷徹な戦士の思考が急速に回転を始める。
遺跡の裂け目に呑み込まれ、唐の将軍高仙芝に拾われたとき、彼は自分が時の流れから置き去りにされたことを知った。愛する祖国も、忠誠を誓った王も、すべては九十年前の塵となっていた。その終わりのない孤独の中で出会ったのがアリアであり、そしてメイファだった。
(二度と、守れずに終わるつもりはない。ペルシャの雪山でも、長安の宮廷でも、俺は失敗し続けた。だが、今度は違う。この呪われた血も、この破壊の腕も、すべてはこの二人のために振るう)
アルダシールが地を蹴ろうとした、その瞬間だった。
「パパ、あっち。あっちに嫌な匂いがするよ」
メイファの背にいたアルスが、霧の向こうの一角を指差した。その声には、恐怖など微塵もなかった。あるのは、獲物を見つけた猛獣のような、純粋で残酷な高揚感だけだった。
「アルス」
「僕、あっちの泥んこ、やっつけてくる」
アルスはメイファの背からひょいと飛び降りると、アルダシールが止める間もなく、霧の奥へと猛然と駆け出した。
「待て、アルス。戻れ」
アルダシールの叫びは、アルスの加速音にかき消された。
五歳の子供の脚力ではない。ドガン、ドガンと、足を踏み出すたびに街道の岩が爆発し、霧が円状に吹き飛ぶ。アルスは真っ直ぐに、泥の巨像の足元へと肉薄した。
「えーい」
無邪気な掛け声とともに、小さな拳が泥の巨腕と激突した。
爆発音が響き渡る。
信じられないことに、粉砕されたのはアルスの腕ではなく、泥の巨像の腕だった。それだけではない。衝撃波は巨像の腕を伝わり、胴体、そして頭部へと駆け巡った。泥の巨像は、たった一撃でその巨大な質量を維持できなくなり、内側から爆発するようにして、ただの泥の水たまりへと霧散したのだった。
「な」
アルダシールは、その光景に言葉を失った。
(これが、薬の封印が解けた、ディーヴの真の力か。五歳にして、すでに俺の全盛期を凌駕している)
アルスは泥まみれになりながら、ケラケラと笑い声を上げた。
「あはは。柔らかい、柔らかいよ、パパ。もっといっぱい、出ておいで」
アルスは振り返り、霧の奥に潜む他の影喰たちに向かって、挑発するように小さな手を振った。その瞳は、深みのある灰色から、不気味な暗紫色へと完全に変色していた。
メイファが膝をつき、口元を両手で覆った。
「ああっ。アルス。私の可愛いアルスが、本当に鬼に」
「メイファ、しっかりしろ。あの子は鬼ではない。俺たちの息子だ」
アルダシールは刀を強く握り直した。
アルスの覚醒は、確かに恐ろしい。だが、その力こそが、この絶望的な状況を打破する唯一の希望でもあった。
「アルス、調子に乗るな。敵は無限だ。俺の後ろに下がれ」
アルダシールは叫びながら、アルスの前に躍り出た。
霧の中から、再び無数の泥の腕が伸びてくる。アルダシールは直刀を横一文字に振るった。5年間のブランク、そしてこの雲南の湿った空気が、刃の切れ味をわずかに鈍らせていた。だが、主の危機に呼応するように、刀身に刻まれた古の波斯の紋様が、微かに青白い光を放ち始めた。
「俺はディーヴだ。魔神の血継ぐ者だ。我が愛する者を脅かす者は、誰であろうと容赦はしない」
アルダシールは哮った。
一閃。
放たれた斬撃は、目の前の霧を切り裂き、その奥にいた影喰の群れを泥の塵へと変えた。単なる剣技ではない。己の中に眠るディーヴの覇気を刀に纏わせた、真の破壊の一撃だった。
「パパ、すごい。今の、かっこいい」
アルスが目を輝かせて拍手をした。
「メイファ。前を向け。俺たちが逝きつくべき場所は、この霧の向こうだ」
アルダシールはメイファの腕を掴み、強引に立ち上がらせた。
「ええ。そうね、アル。私、もう迷わないわ。あの子が鬼になろうと、悪魔になろうと、私はあの子の母親。この命が尽きるまで、二人を守り抜いてみせる」
メイファの瞳に、再び強い生命の光が戻ってきた。彼女は薬草袋を握り直し、アルダシールの隣に立った。
「行くぞ。日本へ。東の最果てにある、約束の国へ」
アルダシールを先頭に、メイファ、そして覚醒したアルスは、霧の奥深くへと再び走り出した。
背後からは、まだ泥の蠢く音が聞こえていたが、三人の足取りは先ほどよりも遥かに力強く、迷いはなかった。
時空の歪みに置き去りにされた戦士、過去を偽り続けた妻、そして無自覚な魔神として目覚めた息子。この歪で、しかし強固な絆で結ばれた家族の、本当の旅路が今、始まったのだ。目指すは、アリアの魂が向かった東の空の彼方だ。




