最強のパパ、本気を出す
爾瑪の里を包み込む湿った闇。広場の石畳を侵食するように、黒い泥が生き物のように蠢いていた。
それはかつて、アルダシールが長安の闇で、そしてあの夜の山中で見た、あの「影喰」の忌まわしい臭いそのものだった。
「パパ? この泥、なんだか変だよ」
五歳のアルスが、泥の怪物の腕を素手で引きちぎりながら、無邪気に笑っている。その小さな拳が泥を砕くたびに、空間にパァンと乾いた音が響く。メイファから与えられていた「力を抑える薬」を、アルスの身体に流れる強靭な血脈が、ついに打ち破ったのだ。
その光景を見つめるアルダシールの脳裏に、五年間封印されていた記憶の扉が、凄まじい勢いで叩き壊される音が響いた。
おかしい。
俺が知る「時間」と、この世界が刻む「時間」が、決定的に食い違っている。
アルダシールの主観では、ペルシャの都が火の海に沈み、重い直刀一本を携えて西域の戦場を流浪していたのは、つい昨日のことのようだ。砂漠の夜の凍てつくような寒さ、盗賊と斬り結んだ時の血の鉄臭さ、クチャの遺跡で光る裂け目に呑み込まれた瞬間の、あの重力を失ったような浮遊感。それらはすべて、今も肌の感触として生々しく残っている。
だが、裂け目の底から這い出した彼を拾い、長安へと誘った将軍・高仙芝は、アルダシールの出自を聞いて鼻で笑ったのだ。
『ササン朝? お前、寝言は休み休みに言え。あの国が滅びてから、もう九十年は経っている。お前は死人の国の夢でも見ている幽霊か?』
九十年。
アルダシールにとっての数秒が、外の世界では一世紀近い歳月を飲み込んでいた。自分が二十代の全盛期の肉体のまま、九十年の歳月を飛び越えて現世に放り出されたという事実に、彼は底知れぬ恐怖を覚えた。これは神の悪戯か、あるいはこの世の理そのものが歪んでいるのか。
その孤独の淵で出会ったのが、アリアだった。
長安の宮廷の奥深く、安禄山という名の「影」に支配されていた少女。言葉も通じぬ異国で、アルダシールとアリアは、互いの瞳の中に同じ「亡国の孤独」を見た。
アルダシールは彼女の手を引き、長安を捨てた。
だが、五年前のあの夜、すべては終わった。
祠の前で影喰の影に触れた瞬間、アリアの魂は千年の封印に引きずり込まれ、ほどけていった。
『ごめんね、あなたと旅できてよかった』
あの時、普段は黒い彼女の髪が、内側から溢れ出す銀色の光に侵食され、一瞬だけ神々しい銀色に輝いたのを覚えている。アリアの中に眠る銀華が覚醒し、彼女の魂を抱いて東の空へ昇っていった、あの絶望的なまでに美しい光景。
アリアを救えず、亡骸を抱いて夜の山を彷徨ったあの日から、アルダシールの時間は止まっていた。
「五年前と、同じか」
アルダシールの声が、低く、重く、地面を震わせた。
アリアの魂を追い落とし、自分から全てを奪った「影」が、今度は息子・アルスの血を求めて、この最果ての地まで辿り着いた。
「災いの子だ!」「あの親子が呪いを持ち込んだんだ!」
広場の隅で、村人たちが石を投げながら叫んでいる。
泥の怪物に立ち向かう勇気もなく、安全な場所から責任の所在を議論し続け、自分たちの平穏を壊した異分子を生贄に捧げようとする群衆。その醜悪な姿は、救いようのない停滞の塊だった。
未来を見ようとせず、過去の掟に縋り付き、自分たちの無能さを棚に上げて他者を排除することでしか自己を維持できない連中。
アルダシールにとって、彼らの罵声は影の咆哮よりも不快だった。
「アルス、メイファ。後ろへ」
アルダシールが、錆びた直刀をゆっくりと引き抜いた。
鞘から放たれた刃は、農具に身をやつし、自分を偽っていた五年間を嘲笑うかのように、月光を反射して青白く研ぎ澄まされていた。
「パパ、本気出すの?」
泥を浴びたアルスが、興奮した声を上げる。
「九十年の空白を越え、五年前の絶望を越えた。……今度こそ、俺は何も奪わせない」
アルダシールが一歩踏み出した。その足跡は石畳を深く陥没させ、全身から立ち昇る「気」が、広場を覆う黒い霧を力ずくで押し返していく。
泥の怪物が、咆哮を上げながら一斉に襲いかかってきた。
アルダシールは動かない。
ただ、深く腰を落とし、直刀を横一文字に構えた。
一閃。
パァンッ!
衝撃音が空間を爆裂させた。
それは単なる剣技ではない。血脈に刻まれた宿命と、アリアを失ったあの夜からの怒りを乗せた、圧倒的な意志の一撃だった。
広場を埋め尽くしていた泥の塊が、断末魔の叫びすら上げられず、物理的な実体ごと掻き消え、ただの乾いた塵となって夜風に舞った。
「……バカな、一撃で……!」
腰を抜かす長老ボォと、呆然と立ち尽くす村人たち。
アルダシールは、誰一人として振り返らなかった。
「行くぞ。……この停滞した世界に、俺たちの居場所はない」
メイファが涙を拭い、力強く頷く。
アルスが父の大きな手を握りしめる。
何故かは分からない。
だが、体の奥底で、熱い血のうねりが自分を東へと急かしている。
あの夜、銀華がアリアの魂を抱いて飛び去った、あの東の空へ。
目指すは東。
この歪んだ世界の果てに、アリアの魂の故郷があり、自分たちの血脈が正しく安らげる約束の地があるはずだ。
男は今、自分を置き去りにした残酷な歴史を自らの足で踏み締め、新たな運命を切り拓くことを決意した。




