表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
アルダシールと銀華~千年の時空を駆ける鬼と狐の恋物語  作者: 秋津ネオ


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
33/111

時空の歪みと覚醒の刃

 エルマの里を背にし、湿った濃い霧の中をアルダシールたちは突き進んでいた。


 背後からは、里を飲み込もうとする黒い泥のうねる音と、逃げ惑う村人たちの阿鼻叫喚が、霧にこもって聞こえてくる。だが、アルダシールは一度も振り返らなかった。隣を走るメイファの表情は硬く、その瞳には拭いきれない罪悪感が滲んでいる。彼女の背には、泥にまみれたアルスがしっかりと掴まっていた。


「アル、大丈夫。あの子、泣いていないわ」


 メイファが、自分自身に言い聞かせるように呟いた。


「ああ。だが、気配がおかしい」


 アルダシールは直刀を握り直し、周囲の霧を睨みつけた。


 視界は最悪だ。数メートル先も見通せない灰色な世界。しかし、戦士としての本能が、霧の奥に潜む無数の禍々しい気配を敏感に察知していた。それはエルマの里を襲った泥の怪物、影喰の群れだ。奴らは里を破壊するだけでなく、アルスの放つ強烈な生の波動に引き寄せられ、執拗に追ってきているのだ。


(メイファの言っていた薬、あの子の力を抑える毒か)


 走るアルダシールの脳裏に、先ほどのメイファの告白が蘇る。


 5年間、アルスが普通の子として生きてこられたのは、メイファが毎日飲ませていた薬草茶のおかげだった。ディーヴの血がもたらす破壊的な怪力と暴走する衝動を、薬の毒で殺し続けていたのだ。だが、その封印は今、完全に解けようとしていた。影喰の呪詛に刺激され、アルスの肉体の中で眠っていた魔神が、産声を上げようとしている。


 突然、前方の霧が不自然に歪んだ。


 グチャリと嫌な音を立てて、黒い泥の塊が路面に這い出てくる。それは里で見たちっぽけな泥の波ではない。人間の数倍はある巨大な質量を持った、泥の巨像だった。


「ひっ」


 メイファが息を呑み、足を止めた。


 泥の巨像は、目も鼻もない顔をアルダシールたちへ向け、地鳴りのような咆哮を上げた。その咆哮に呼応するように、左右の霧からも続々と影喰の泥が這い出してくる。完全に包囲されたのだ。


「メイファ、アルスを守れ。俺が道を切り開く」


 アルダシールは直刀を正眼に構え、一歩前に出た。


(俺が拾われてから九十年、ササン朝が滅びてから九十年の時が経った。俺はその空白を、この腕で埋めなければならない)


 アルダシールの胸の中で、冷徹な戦士の思考が急速に回転を始める。


 遺跡の裂け目に呑み込まれ、唐の将軍高仙芝に拾われたとき、彼は自分が時の流れから置き去りにされたことを知った。愛する祖国も、忠誠を誓った王も、すべては九十年前の塵となっていた。その終わりのない孤独の中で出会ったのがアリアであり、そしてメイファだった。


(二度と、守れずに終わるつもりはない。ペルシャの雪山でも、長安の宮廷でも、俺は失敗し続けた。だが、今度は違う。この呪われた血も、この破壊の腕も、すべてはこの二人のために振るう)


 アルダシールが地を蹴ろうとした、その瞬間だった。


「パパ、あっち。あっちに嫌な匂いがするよ」


 メイファの背にいたアルスが、霧の向こうの一角を指差した。その声には、恐怖など微塵もなかった。あるのは、獲物を見つけた猛獣のような、純粋で残酷な高揚感だけだった。


「アルス」


「僕、あっちの泥んこ、やっつけてくる」


 アルスはメイファの背からひょいと飛び降りると、アルダシールが止める間もなく、霧の奥へと猛然と駆け出した。


「待て、アルス。戻れ」


 アルダシールの叫びは、アルスの加速音にかき消された。


 五歳の子供の脚力ではない。ドガン、ドガンと、足を踏み出すたびに街道の岩が爆発し、霧が円状に吹き飛ぶ。アルスは真っ直ぐに、泥の巨像の足元へと肉薄した。


「えーい」


 無邪気な掛け声とともに、小さな拳が泥の巨腕と激突した。


 爆発音が響き渡る。


 信じられないことに、粉砕されたのはアルスの腕ではなく、泥の巨像の腕だった。それだけではない。衝撃波は巨像の腕を伝わり、胴体、そして頭部へと駆け巡った。泥の巨像は、たった一撃でその巨大な質量を維持できなくなり、内側から爆発するようにして、ただの泥の水たまりへと霧散したのだった。


「な」


 アルダシールは、その光景に言葉を失った。


(これが、薬の封印が解けた、ディーヴの真の力か。五歳にして、すでに俺の全盛期を凌駕している)


 アルスは泥まみれになりながら、ケラケラと笑い声を上げた。


「あはは。柔らかい、柔らかいよ、パパ。もっといっぱい、出ておいで」


 アルスは振り返り、霧の奥に潜む他の影喰たちに向かって、挑発するように小さな手を振った。その瞳は、深みのある灰色から、不気味な暗紫色へと完全に変色していた。


 メイファが膝をつき、口元を両手で覆った。


「ああっ。アルス。私の可愛いアルスが、本当に鬼に」


「メイファ、しっかりしろ。あの子は鬼ではない。俺たちの息子だ」


 アルダシールは刀を強く握り直した。


 アルスの覚醒は、確かに恐ろしい。だが、その力こそが、この絶望的な状況を打破する唯一の希望でもあった。


「アルス、調子に乗るな。敵は無限だ。俺の後ろに下がれ」


 アルダシールは叫びながら、アルスの前に躍り出た。


 霧の中から、再び無数の泥の腕が伸びてくる。アルダシールは直刀を横一文字に振るった。5年間のブランク、そしてこの雲南の湿った空気が、刃の切れ味をわずかに鈍らせていた。だが、主の危機に呼応するように、刀身に刻まれた古の波斯の紋様が、微かに青白い光を放ち始めた。


「俺はディーヴだ。魔神の血継ぐ者だ。我が愛する者を脅かす者は、誰であろうと容赦はしない」


 アルダシールは哮った。


 一閃。


 放たれた斬撃は、目の前の霧を切り裂き、その奥にいた影喰の群れを泥の塵へと変えた。単なる剣技ではない。己の中に眠るディーヴの覇気を刀に纏わせた、真の破壊の一撃だった。


「パパ、すごい。今の、かっこいい」


 アルスが目を輝かせて拍手をした。


「メイファ。前を向け。俺たちが逝きつくべき場所は、この霧の向こうだ」


 アルダシールはメイファの腕を掴み、強引に立ち上がらせた。


「ええ。そうね、アル。私、もう迷わないわ。あの子が鬼になろうと、悪魔になろうと、私はあの子の母親。この命が尽きるまで、二人を守り抜いてみせる」


 メイファの瞳に、再び強い生命の光が戻ってきた。彼女は薬草袋を握り直し、アルダシールの隣に立った。


「行くぞ。日本へ。東の最果てにある、約束の国へ」


 アルダシールを先頭に、メイファ、そして覚醒したアルスは、霧の奥深くへと再び走り出した。


 背後からは、まだ泥の蠢く音が聞こえていたが、三人の足取りは先ほどよりも遥かに力強く、迷いはなかった。


 時空の歪みに置き去りにされた戦士、過去を偽り続けた妻、そして無自覚な魔神として目覚めた息子。この歪で、しかし強固な絆で結ばれた家族の、本当の旅路が今、始まったのだ。目指すは、アリアの魂が向かった東の空の彼方だ。 

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ