偽りの平穏の瓦解
エルマの里を包んでいた沈黙は、唐突に破られた。
悲鳴や怒号ではない。まるで湿った重い土が擦れ合い、生々しい肉が脈打つような、気味の悪い水音が広場全体に響き渡ったのだ。
集落の中央を流れていた小川は、すでに水の色を失っていた。粘り気のある漆黒の泥が、川底から沸き立つように溢れ出し、石畳の隙間を埋めながら広場へと這い上がってくる。
「なんだ、この泥は。どこから流れてきたんだ」
竹やりを手にした若い村人が、不審そうに泥の波へ足を一歩踏み出した。
「よせ、触るな」
アルダシールの制止の声は間に合わなかった。
若い村人の足首に、黒い泥が生き物のように絡みついた。次の瞬間、男の口から言葉にならない引きつった悲鳴が漏れた。泥は衣服を透過し、皮膚の毛穴という毛穴から肉体の中へと容赦なく侵入していく。
「あ、が。あぁぁっ」
男の瞳から光が消え、白目が真っ黒な泥の色彩に染まる。全身の血管が黒く浮かび上がり、骨が軋む不気味な音が響いた。膝や肘の関節が、あり得ない方向へと逆に折れ曲がっていく。昨日まで一緒に籾を運んでいた素朴な村人が、たった数秒で意思を持たない泥の怪物へと成り果てたのだ。
「ひいぃぃっ、化け物だ」
「助けてくれ、誰か」
村人たちは手にしていた竹やりや斧を放り出し、パニックを起こして逃げ惑った。
アルダシールは直刀を鞘から静かに引き抜いた。
白刃が、薄暗い霧の中で冷ややかな光を放つ。5年のブランクなど一瞬で吹き飛んだ。使い込まれた柄を握りしめた瞬間、手のひらの皮膚が金属と融け合うような感覚が走り、全身の血が戦士の熱量を取り戻していく。
「メイファ、アルスを連れて下がっていろ。これは生きた人間が関わっていい代物ではない」
アルダシールが刃を構え直した、その時だった。
「パパ、すごい。あの泥、おもしろそう」
聞き慣れた無垢な声が、殺伐とした空間に響いた。
「アルス、待て」
アルダシールの制止を完全に無視し、五歳のアルスが小さく地を蹴った。
ドガンと、足元の石畳が爆辞したかのように粉々に砕け散った。五歳の子供の体重から放たれたとは思えぬ衝撃波が起きる。アルスの身体は風を切り、関節の折れ曲がった泥の怪物へまっすぐに肉薄した。
「ははっ、つかまえた」
アルスは無邪気な笑顔を浮かべたまま、怪物となった村人の胸元へ小さな拳を突き立てた。
バチィンと、肉と泥が飛散する凄惨な音が響いた。
アルスの拳は怪物の胸を容易く貫通し、背後へと突き抜けた。それだけではない。アルスは小さな両手で怪物の巨躯を掴むと、まるで濡れた布でも破くように、巨大な肉体を左右に豪快に引き裂いてみせたのだった。
どす黒い汁と血が、朱に染まったアルスの全身に降り注ぐ。
「おもしろい、おもしろいよ、パパ。これ、とっても柔らかいんだ」
黒い汁を浴び、それを口元に付着させながら、狂気に満ちた満面の笑みを浮かべる我が子。
その光景を目にしたアルダシールは、背筋に凍りつくような戦慄を覚えた。
そこにいるのは、自分が愛した可愛い息子ではなかった。古代の戦場で猛威を振るい、立ち塞がる者をすべて潰し散らしてきた、魔神ディーヴの再臨そのものだった。
「やめて、アルス。お願いだから、それ以上はやめて」
背後で、崩れ落ちるような悲鳴が上がった。
メイファが地面に両膝をつき、泥で汚れた土巾を抱きしめて涙を流していた。その顔は蒼白で、唇は激しく震えている。
「メイファ」
「ごめんなさい、アル。ごめなさあい。私、あなたに嘘をついていたの」
メイファの瞳から、大粒の涙が堰を切ったように溢れ出た。
「あの薬草茶は、あなたの記憶を消したり、体調を整えたりするためだけのものじゃなかったの。アルスの中に眠る恐ろしい怪物を封じ込めて、普通の人間に育てるための、強い強い毒だったのよ」
アルダシールは息を呑んだ。
「毒だと」
「ええ。あの子の身体の中に流れるディーヴの血は、人を殺し、破壊するためだけに存在する悪魔の血よ。そのまま育ち上がれば、世界を滅ぼす化け物になってしまう。だから私、あの子の力を薬で殺し続けていたの。人を壊さないように、優しい男の子として生きられるように」
メイファは泥にまみれた地面に額をこすりつけ、声を上げて泣いた。
「この里の穏やかな生活も、全部私がついた嘘の上に作られた偽物だったの。でも、もう薬が効かない。影喰の呪いがやってきて、あの子の中の本当の鬼を呼び覚ましてしまったのよ」
広場のあちこちで、村人たちの醜い悲鳴と罵声が飛び交っていた。
「見ろ、あのガキを。人間を素手で破り捨てやがった」
「やっぱりあの親子が化け物だったんだ」
「お前たちのせいで、俺たちの里がメチャクチャになったんだぞ。出て行け、呪われた悪魔ども」
彼らは迫り来る泥の波と戦おうとはせず、安全な高台へ逃げ延びながら、すべての責任をアルダシールたちへとなすりつけていた。昨日までメイファの薬草に感謝し、アルダシールの力仕事に甘えていた者たちが、いまや獣のような眼で憎悪をぶつけてくる。
その醜悪な光景は、迫り来る影喰の泥よりも遥かに空虚で、腐敗していた。
アルダシールは静かに歩み寄り、泣きじゃくるメイファの細い肩を抱き起こした。
「メイファ。顔を上げろ」
「アル。でも私、あなたを騙して」
「嘘だろうが、毒だろうが関係ない。お前が俺たちにくれた5年間の時間は、間違いなく真実だった。お前があの薬を使ってまでこの子を守ろうとした深い愛情も、本物だったはずだ」
アルダシールはメイファの涙を、分厚い親指で優しく拭い取った。
「ここから先は、俺の仕事だ。お前が注いでくれた愛を、俺が刀で守る」
アルダシールは振り向きざまに、泥まみれになって笑っていたアルスの首根っこを力任せに掴み上げた。
「うわっ、パパ」
「遊びは終わりだ、アルス。お前が振るうべき力は、そんな泥を弄ぶためではない」
アルダシールはアルスを抱え込み、メイファの背後へと投げ下ろした。
「パパとママの側にいろ。離れるな」
「うん」
アルスは父の圧倒的な威圧感に毒気を抜かれたのか、おとなしくメイファの服の裾にしがみついた。
アルダシールは正眼に刀を構え直し、広場を埋め尽くそうとする黒い泥の波と、身勝手な不満を叫び続ける村人たちを冷たい眼で見据えた。
「ボォ。お前たちの言い分は分かった。この里の平和を破ったのは、俺たちの存在だ」
高台から杖を握りしめて見下ろす長老ボォに対し、アルダシールは低く、地鳴りのような声を送った。
「だが、俺たちはここで死ぬつもりはない。我が子の未来も、妻の想いも、すべてを背負って前へ進む」
直刀が一閃した。
目にも留まらぬ速さで放たれた気合の一撃が、広場を覆っていた泥の波を真っ二つに切り裂いた。斬撃の衝撃波が泥を蒸発させ、集落の外へと続く一本の乾いた道を力ずくでこじ開ける。
「行くぞ、メイファ、アルス。この停滞し、腐りかけた里に用はない」
アルダシールは二人をかばうように前に立ち、切り開かれた道を迷いなく踏み出した。
背後で村人たちの虚しい罵声と、泥の波が押し寄せる不気味な音が響いていたが、男は二度と振り返らなかった。
仮初めの安息は潰えた。だが、その破滅の先には、本物の家族として生きていくための過酷で美しい旅路が、確かに始まっていた。




