「あの薬は毒だったの」妻の涙の告白と、覚醒した幼き息子が影を素手で引き裂く無双劇
爾瑪の里の静寂を破ったのは、悲鳴ではなかった。
それは、石が擦れるような、不快な「湿った音」だった。
里の境界を流れる小川。そこから溢れ出した黒い泥が、生き物のように蠢きながら石橋を飲み込み、広場へと這い上がってくる。
「なんだ、これは」
一人の村人が、怪訝そうにその泥に手を伸ばした。
触れた瞬間、泥は牙を剥くように男の腕に絡みつき、そのまま体内へと潜り込んだ。
「あ、あああ、、!」
男の白眼が剥かれ、全身の関節が逆方向にミシミシと軋み始める。昨日までアルダシールと共に籾を運んでいた男が、一瞬にして意思を持たない肉の塊へと成り果てた。
「影喰!」
アルダシールは、直刀を正眼に構えた。
数年の沈黙。だが、その柄を握った瞬間、手の平の皮膚が刀と一体化し、全身の血が戦士の熱量を取り戻す。
「パパ、すごい! あの泥、おもしろそう!」
傍らで、五歳のアルスが歓喜の声を上げた。
恐怖など微塵もない。アルスの瞳には、獲物を見つけた猛獣のような、残酷な輝きが宿っている。
「アルス、下がれ! それは遊びではない!」
「やだ! 僕、あれで遊びたい!」
アルスが地を蹴った。五歳の子供とは思えぬ脚力が石畳を砕き、彼は一直線に泥の怪物へと肉薄する。小さな拳が、泥の中に形成されつつあった「影の核」に突き刺さった。
グシャ、という嫌な音が響く。アルスはそのまま、自分よりも巨大な泥の塊を、素手で引き裂き始めた。
「ははは! おもしろい! おもしろいよ!」
泥を浴び、返り血のような黒汁を啜りながら笑う息子。
アルダシールは凍りついた。その姿は、英雄の誕生ではない。「魔神」の再臨そのものだった。
「やめて、アルス! それ以上、飲んじゃダメ!」
背後で、メイファが叫びながら崩れ落ちた。
彼女の目から、堰を切ったように涙が溢れ出す。
「ごめんなさい、アル、ごめんなさい!」
「メイファ、何を言っている」
「あの薬草茶は、あなたの記憶を消すためだけじゃなかったの。アルスの中に眠る『怪物』を眠らせるための、強い毒だったのよ!」
アルダシールは息を呑んだ。
メイファは、愛する我が子が「人」として生きられるよう、その圧倒的な力を薬で封じ込め、矮小な子供として繋ぎ止めていたのだ。
「この里の平和も、私たちの生活も、全部、私がついた嘘の上に成り立っていたの! でも、もう薬が効かない。あの影が、アルスの中の鬼を呼び覚ましてしまった!」
広場には、異変に気づいた村人たちが集まってきた。
だが、彼らは泥に立ち向かおうとはしなかった。ただ遠巻きに、古びた掟の文句を叫び、互いに責任をなすりつけ合うばかりだ。目の前で男が飲み込まれ、世界が崩壊しようとしているのに、彼らが気にしているのは「誰がこの異変を招いたか」という不毛な議論だけだった。
「災いの子だ!」「あの親子が禁忌を破ったんだ!」
現実を直視せず、意味のない罵声を積み上げ続ける群衆の姿は、影の怪物よりも醜く、空虚に見えた。
「メイファ。顔を上げろ」
アルダシールは、直刀を横一文字に振るい、迫り来る泥の波を切り裂いた。
「嘘だろうが、毒だろうが、お前が俺たちにくれた時間は真実だ。ここから先は、俺の仕事だ」
アルダシールは、返り血で黒く染まったアルスの首根っこを掴み、背後に放り投げた。
「行くぞ。この停滞した里に、用はない」




