破綻する平和の仮面
あの日、嵐の夜に生まれた赤ん坊アルスが、すくすくと育ち五歳を迎えるまでの年月は、表面上は穏やかなものに見えた。
雲南の深い山々に囲まれたエルマの里は、一年を通じて湿った濃い霧に覆われている。季節の巡りさえ曖昧なこの土地で、アルダシールは農夫のように地に汗を流し、メイファは薬草を積んで村人の傷を癒やしていた。
だが、その仮初めの平穏の底には、着実に不吉な亀裂が走り始めていたのだった。
「パパ、見て。この石、すごーく重いんだよ」
晴れ間の覗いた集落の広場で、五歳になったアルスが小さな手を泥だらけにして笑っていた。
その足元にあるのは、大人が五人がかりでようやく持ち上げるような、直径一メートルを超える巨大な石臼だった。アルスはその石臼の端を、まるで木の実でも拾い上げるかのように、片手でひょいと持ち上げて見せた。
ガタガタと地響きが鳴り、集落の広場で作業をしていた村人たちが一斉に足を止め、恐怖に引きつった顔でアルスを見つめた。
「こら、アルス。そんな大きなものを持ち上げて遊ぶのではない」
アルダシールはすぐさま歩み寄り、アルスの小さな手から石臼を静かに受け取って地面へ下ろした。ドスンと重い音が響き、石畳が深く沈み込む。
「だって、パパ。これでお山を作ったら楽しいかなって思ったんだ」
アルスは灰色の澄んだ瞳を丸くして、無邪気に首を傾げた。
五歳とは思えぬほどガッシリとした骨格。愛らしい顔立ちをしているものの、その全身から溢れ出る圧倒的な覇気と筋肉の密度は、人間の子供のそれとは完全にかけ離れていた。
アルダシールは息子の手を泥で汚れた手巾で優しく拭きながら、胸の奥に渦巻く重い冷気を感じていた。
(この子の力は、日に日に強くなっている。隠し切れる限界を超えているのだ)
周囲で農作業をしていた村人たちが、遠巻きにアルスを睨みつけながら、ヒソヒソと嫌な噂話を交わしているのが耳に届く。
「見たか、あの怪力を。やはりあの子供は人の子ではないぞ」
「五年前のあの嵐の夜からだ。この里の雰囲気がおかしくなったのは」
「ああ、最近の家畜の事故も、きっとあの親子が連れてきた祟りに違いない」
刺すような視線が集まる中、アルスは嫌な気配を感じ取ったのか、アルダシールの服の裾をキュッと強く握り締めた。その小さな手の力だけで、頑丈な布地がミシリと悲鳴を上げる。
「パパ。みんな、なんで怒っているの。僕、何か悪いことしたのかな」
「お前は何も悪くない。ただ、みんな少し疲れているだけだ。家へ帰ろう」
アルダシールはアルスを抱き上げ、大きな胸の中に隠すようにして歩き出した。
だが、家に着いたアルダシールを待っていたのは、さらに深刻な事態だった。
土間の奥で、メイファが小さく肩を震わせて立ち尽くしていた。その足元には、水で満たされた桶と、血で赤く染まった手ぬぐいが転がっている。
「メイファ、どうした」
「アル。今日の明け方、東の放牧地でまた見つかったの」
メイファの細い声が、激しく震えていた。
「今度は、村で一番大きな若い牛よ。首が骨ごと叩き折られて、体中の血が綺麗に抜き取られていたわ。猛獣の噛み跡なんてどこにもなかった。ただ、凄まじい力で力任せに引きちぎられた痕だけが残っていたの」
「またか」
ここ数か月、エルマの里では不審な家畜の死が頻発していた。最初は小さな羊や山羊だったが、被害は次第に大きくなり、殺され方も凄惨さを増していた。
アルダシールが抱きかかえていたアルスを地面へ下ろした瞬間、メイファの視線が息子の右手に向けられた。
アルスの小さな右手の甲と、爪の隙間。そこには、綺麗に拭き取り切れなかった黒く固まった乾いた血と、牛の固い毛がこびりついていた。
「アルス」
メイファの顔から完全に血の気が引いた。彼女は膝をつき、アルスの両肩を強く掴んだ。
「アルス、正直に言いなさい。今日の夜明け前、あなたはどこにいたの。お部屋のベッドにいたでしょう」
アルスは不思議そうに自分の右手を見つめ、無邪気な笑顔を浮かべた。
「あのね、ママ。夜、お外で大きなワンワンがいたんだよ。僕の服を引っぱって遊ぼうって言うから、一緒に森へ行ったの」
「森へ」
「うん。とっても大きくて、黒くてかっこいいワンワンだったよ。僕と力くらべしようって言うから、ギューッて抱っこしてあげたら、静かになっちゃったんだ。そのあと、ワンワンのお友達の牛さんも来て、一緒に遊んだんだよ」
アルスの瞳が一瞬、灰色から深い不気味な暗色へと濁った。
それは人を愛する無垢な子供の瞳ではなく、己の圧倒的な暴力性に無自覚な、捕食者の冷酷な眼光だった。
メイファは息を呑み、思わず手を放して尻餅をついた。涙がボロボロと大きな瞳から溢れ出る。
「そんな。そんなことって」
(アルス自身が、血の味を覚え始めているのか。自分の中に潜むディーヴの血に引きずられて)
アルダシールの全身に冷や汗が吹き出した。
安禄山の放った影喰の呪詛が、この山深き里にまで及んでいるだけではない。その禍々しい気配に刺激され、アルスの内に眠る魔神の血脈が、目覚めようとしていたのだ。
「パパ、ママ。なんで泣いているの」
アルスは悲しそうに眉を下げ、メイファに寄り添おうとした。
「僕、強いお兄ちゃんになって、パパとママを守りたいだけなんだよ。強くならなきゃダメんでしょう」
少年の言葉は純粋そのものだった。悪意など微塵もない。だからこそ、その破滅的な怪力と無意識の暴力が、救いようのない恐怖となって押し寄せてくる。
「アルス、お前は誰も傷つけていない。良い子だ」
アルダシールは息子を強く抱きしめ、メイファへ視線を送った。
「メイファ。お前がアルスに飲ませていたあの薬草茶は、どうした」
メイファは口元を震わせながら、力なく首を振った。
「ダメなの、アル。もう効かないのよ。今まであの子の暴走する力を抑え、記憶を穏やかに保っていたあの薬が、あの子の成長に追いつかないの。あの子の身体が、毒も薬もすべて跳ね返すほど強くなってしまっているの」
「そうか」
その時、家の玄関の戸が勢いよく叩かれた。
「アルダシール、いるか。出てこい」
厳しい声の主は、長老のボォだった。
アルダシールが戸を開けると、ボォだけでなく、竹やりや斧を手にした十数人の村人たちが、殺気立った表情で取り囲んでいた。
「ボォ。大勢で押しかけて、何の真似だ」
「とぼけるな、アルダシール。東の放牧地の牛をやられた。そして、その牛の死体の横には、お前さんの息子の着物の切れ端が落ちていたのだぞ」
村人の一人が、血に濡れた小さな布切れを叩きつけるように差し出した。
「やっぱりあの化け物ガキの仕業だったんだ」
「気味の悪い力を持った鬼の親子め。この里から出て行け」
「いや、生かして帰すな。村の災いを断ち切るのだ」
罵声が飛び交い、村人たちが武器を握り直す。彼らの目には、長年共に暮らしてきた仲間への情など一切なく、ただ異物に対する狂気的な恐怖だけが渦巻いていた。
ボォは静かに杖を突き、村人たちを制した。
「アルダシールよ。わしは警告したはずだ。お前さんの持つディーヴの血は、この平和な里を破滅させるとな。もはや薬草茶で誤魔化せる段階は過ぎた」
「ボォ」
「見ろ。里の小川を」
ボォが指差す先、集落の中央を流れていた澄んだ小川が、どす黒い泥のような液体へと変色していた。不快な腐臭が漂い、水面からは気味の悪い泡がプツプツと立ち上っている。
(これは、安禄山の呪詛。影喰の泥か)
「お前たちの存在が、外の禍々しい影を引き寄せておるのだ。このままではエルマの里そのものが呑み込まれる。アルダシール、答えろ。お前はどうするつもりだ」
ボォの詰問に、アルダシールは答えることができなかった。
その時だった。
空を覆う濃い霧の向こうから、脳髄を直接揺さぶるような、不気味な低音の笑い声が響き渡った。
(ハハハ。熟したな、ディーヴの種よ。血の味を覚えた怪物の目覚めだ)
安禄山の冷徹な嘲笑が、直接アルダシールの耳底に突き刺さる。
広場を流れる黒い水が一気に跳ね上がり、水煙となって集落全体を包み込み始めた。
アルダシールは自らの足元を踏み締め、納屋の奥に封印していた錆びついた直刀の柄へと手を伸ばした。
5年間、一度も抜くことのなかったその刃が、主の意思に呼応するように、鞘の中で甲高い鳴き声を上げた。
仮初めの平穏の仮面は、今まさに木端微塵に砕け散ろうとしていた。




