隠れ里に響く不吉な産声
月日は、エルマの里を流れる冷たい小川のように、静かに、そして刻一刻と過ぎ去っていった。
雲南の深い山々に囲まれたこの隠れ里では、季節の移り変わりすら霧の彼方に霞んで見える。猛吹雪の夜に倒れ込んだアルダシールは、いつしかこの石造りの集落で暮らす日常を受け入れ始めていた。
「アルダシール、少し手を貸してくれ。この巨石が退かなくて困っていたのだ」
村の老人が声をかけると、アルダシールは自慢の巨躯を折り曲げ、無造作に腕を伸ばした。大人が三人がかりでも動かなかった巨大な岩が、彼がひとたび力を込めると、ズズと音を立てて容易く持ち上がった。
「おお、助かった。お前さんが来てくれてから、里の土木作業が半分以下の時間で終わるようになったよ」
「力仕事なら、いつでも言え。俺にできるのはこれくらいだ」
かつて波斯の宮廷で剣を振るい、戦場で敵の肉を断ち切っていたその剛腕が、今では畑の耕作や家の建設に使われていた。
汗を拭いながら家へ戻ると、土間の奥から香ばしいスープの匂いが漂ってくる。
「お帰りなさい。今日も村のお手伝いだったのね」
メイファが温かい笑みを浮かべて迎えてくれた。彼女の腹は、数か月前から大きく膨らみ始めていた。アルダシールとメイファの間に、新しい命が宿っていたのだ。
「ああ。裏の用水路の補強が終わったところだ」
アルダシールは手を洗い、メイファの隣に腰を下ろした。
彼女の膨らんだお腹に視線を落とすと、不意に、腹の表面がグニャりと不自然な形に歪んだ。ただの愛らしい胎動ではない。まるで腹の中に閉じ込められた小さな大男が、内側から肉をぶち破ろうと暴れ回っているかのような激しさだった。
「うっ」
メイファが短く息を呑み、苦しそうに眉をひそめた。
「大丈夫か、メイファ」
「ええ、大丈夫よ。でも、この子ったら本当にお転婆というか、元気が良すぎるの。お腹の中で暴れるたびに、骨が軋むような音がするのよ」
メイファは苦笑いしながら、自分の腹を愛おしそうになでた。
アルダシールはそっと大きな掌を彼女の腹の上に置いた。その瞬間、ドカンと手のひらに直接、強烈な衝撃が伝わってきた。
(な、なんだ、この力は。生まれる前の赤ん坊の力ではない)
アルダシールの腕に思わず力が入る。
こめかみの奥で、久しく忘れていた嫌な脈打ちが蘇った。自分の中に静かに眠る、黒海周辺の部族より受け継ぎしディーヴの血。魔神の血脈が、まだ見ぬ我が子に恐ろしいまでの密度で濃縮されているのだ。
(俺の呪われた血が、この子に引き継がれてしまっているのか。人を超える圧倒的な暴力の種が)
アルダシールの暗い表情を察したのか、メイファは優しく彼の手に自分の手を重ねてきた。
「何を不安がっているの、アル。この子は私たちの宝物よ。あなたがどれほど強い力を持っていても、この子がどんな子であっても、私がちゃんと愛して育てるわ」
「メイファ」
「だから、そんな恐ろしいものを見るような目をしないで」
彼女の力強い言葉に、アルダシールは深く息を吐き出し、うなずくしかなかった。
しかし、その穏やかな日々を切り裂く出来事は、ある日突然やってきた。
夜が明けきらぬ薄暗い刻限、集落の広場が不気味な騒ぎに包まれた。アルダシールが家を出ると、村人たちが一箇所に集まり、青ざめた顔で地面を見つめていた。
「どうした、何があった」
人ごみを押し分けて前へ出たアルダシールは、息を呑んだ。
そこに転がっていたのは、村で飼われていた大きな羊の死体だった。それも、ただ猛獣に襲われた姿ではない。太い首が雑巾のように雑にねじ切られ、内臓がえぐり出されて中身を啜り取られていた。四肢はあらぬ方向に叩き折られ、血が乾いた泥の上にどす黒く広がっている。
「狼の仕業じゃない。狼なら肉を食らうはずだ。これは……ただ殺すことと、血を啜ることを楽しんだような殺し方だ」
村人の一人がガタガタと震える声で呟いた。
冷たい視線が、さりげなくアルダシールの巨躯へと向けられる。
(俺を疑っているのか。それとも)
「アルダシール、少し来い」
人ごみの後ろから、長老のボォが現れた。その顔は不吉な影で覆われており、手にした杖を強く握りしめていた。
集落の外れにある静かな岩陰へ歩むと、ボォは振り返り、厳しい眼差しをアルダシールに向けた。
「あの羊の残殺死体を見たな」
「見た。ただの獣の仕業ではない」
「そうだ。あれは獣ではない。血の味を覚えた怪物の仕業だ」
ボォの声が低く沈んだ。
「アルダシールよ、隠さずに答えろ。お前さんの中に眠るディーヴの血……あれはお前さん一人だけのものか」
「どういう意味だ」
「メイファの腹の中にいる子のことだ。あの腹の異様な膨らみと、夜な夜な屋敷の周りから漂う刺すような威圧感。わしには解るぞ。あの羊を殺したのは、森の獣でもお前さんでもない。メイファの腹の中にいる、血の飢えに耐えかねた我が子の覇気が、森の邪気と引き合って引き起こした怪異だ」
ボォの言葉に、アルダシールは言葉を失った。
「そんな馬鹿なことが、、、、まだ生まれてもいない赤ん坊だぞ」
「ディーヴの血とはそういうものだ。強大すぎる生命力は、存在するだけで周りの生気を蝕み、狂わせる。お前さんの血は濃すぎるのだ。この里に、新たな鬼が生まれようとしている」
ボォは静かに首を振った。
「わしは里の長だ。村人たちを危険に晒すわけにはいかん。もしその子が生まれたとき、完全に人の理から外れた怪物であったなら……わしはその手で」
「やめろ」
アルダシールはボォの胸ぐらを掴み上げ、激しい殺気を放った。老人の体が宙に浮き、杖が地面に落ちる。
「俺の子だ。俺とメイファの子だ。誰であろうと、指一本触れさせん。怪物になろうと鬼になろうと、俺が人として育てる」
ボォは苦しげに息を吐きながらも、その目には一切の怯えがなかった。
「ならば見せてみろ。父親としての意地をな」
アルダシールは乱暴にボォを地面へ下ろし、背を向けて走り去った。
その日の夜、エルマの里は猛烈な嵐に見舞われた。
黒雲が空を覆い尽くし、激しい雷鳴が山々を揺らす。滝のような大雨が屋根を打ち叩き、風が狂ったように吹き荒れていた。
「痛いっ! アル、痛いっ!」
家の中で、メイファが激しい陣痛に苦しんでいた。
汗でびっしょりと濡れた髪を額に貼り付け、彼女は藁のベッドの上で身体を折り曲げていた。アルダシールはその小さな手を力任せに握りしめた。
「耐えろ、メイファ! しっかりするんだ!」
「うあぁぁぁぁっ!」
雷光が部屋を真っ白に照らし出した瞬間、メイファの裂けるような叫び声とともに、激しい衝撃が部屋全体を揺らした。
ドガンと、家を支える太い柱が悲鳴を上げ、屋根の隙間から土煙が舞い散る。
次の瞬間、嵐の音をかき消すほどの凄まじい声が集落中に響き渡った。
それは赤ん坊の泣き声などではなかった。まるで地底から響く地鳴りのような、獰猛な獣の咆哮だった。
「おぎゃあぁぁぁっ!」
雷鳴が落ち、世界が一瞬止まる。
力尽きたメイファの胸の上に、生まれたての赤ん坊が横たわっていた。
アルダシールは息を呑み、その赤ん坊を見つめた。
生まれて数秒しか経っていないというのに、その身体は普通の赤ん坊の倍近くあり、骨格はすでに固く引き締まっていた。全身を覆う血を払いながら、赤ん坊は大きな瞳を開いた。その瞳は、深みのある灰色の光を帯びていた。
「アル、、、見て、、、私たちの、、、男の子よ」
メイファが虫の息になりながら、愛おしそうに赤ん坊の頬をなでた。
アルダシールは震える手で赤ん坊を抱き上げた。その瞬間、赤ん坊の小さな右拳が、アルダシールの胸板へと力任せに叩きつけられた。
ドスと、鈍い重低音が響く。
(なっ!?)
アルダシールの巨躯が、わずかに後ろへ揺らいだ。七尺を超える鍛え抜かれた肉体に、明確な激痛が走り抜ける。大人の兵士の一撃に匹敵する重さが、この生まれたばかりの腕から放たれたのだ。
赤ん坊はアルダシールの顔を見つめると、ケラケラと無邪気に笑い始めた。
「アルス」
アルダシールの口から、自然とその名前が漏れ出た。
「お前の名前は、アルスだ」
抱きしめた我が子の温もりと、その内側に潜む絶大な怪力。アルダシールは確信した。この子は間違いなく、自分の中に眠るディーヴの血を完璧に受け継いでいる。そしてこの子の誕生こそが、この仮初めの安息を完全に終わらせる合図なのだと。
不意に、アルダシールは窓の外へと視線を向けた。
激しい雨が打ちつける闇の森の中、樹々の隙間から、無数の不気味な光が浮かび上がっていた。
一つや二つではない。何百、何千という血のように不気味な紅い眼が、嵐の夜の中に蠢き、この家をじっと見つめていた。
安禄山の放った刺客、影喰たちの気配だった。
アルスの放った圧倒的な生の波動が、暗闇の底で蠢く呪いどもを引き寄せてしまったのだ。
「アルス、、、、」
アルダシールは胸の中の我が子を強く抱きしめ、静かに腰の刃物へと手を伸ばした。
穏やかな隠れ里の平穏は、今まさに終わりを告げようとしていた。




