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アルダシールと銀華~千年の時空を駆ける鬼と狐の恋物語  作者: 秋津ネオ


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29/61

記憶喪失のフリをして安息を選んだら、癒やし系の妻と出会ってしまった

 シャングリ・ラの雪嶺を下り、雲海を抜けた先にその集落はあった。


 切り立った岩肌にへばりつくように建つ石造りの家々。


「爺さん。あんた、名前は」


 アルダシールが、前を歩く背中に問いかけた。


「ボォだ。ルマ・ボォ。この爾瑪エルマの里の長を任されている」


 ボォが足を止め、手にした杖で地面を叩いた。


「ここが、我ら失われた民の隠れ里だ。若いの、お前さんのことはなんと呼べばいい」


「アルダシールだ。それ以上は、忘れた」


「ほう。忘れたか。よし、なら今はただの旅人として、ここで牙を休めるがいい」


 ボォはそれ以上何も聞かず、集落の広場へと歩を進めた。


 七尺二寸の巨躯が村に入ると、空気は一変した。村の子供たちが遠巻きに彼を見上げ、怯えたように親の陰に隠れる。


「おい、ボォ。言っておくが俺は農夫でも羊飼いでもない。剣を振るうこと以外、何もできんぞ」


「剣など、この地ではただの鉄屑だよ。まずは、その荒んだ『目』をどうにかしろ」


 ボォが立ち止まったのは、広場に面した一軒の家だった。清涼な薬草の香りが漂っている。


「メイファ、いるか。新しい患者を連れてきたぞ」


 家の奥から、一人の女が姿を現した。

 アルダシールは、思わず息を呑んだ。


 メイファ。


 アリアが儚い月光だとしたら、この女は湿り気を帯びた肥沃な大地のような、強い生命力を放っていた。


「あら、まあ。本当に大きな人ね」


 女は驚いたように目を丸くしたが、すぐに柔らかな微笑を浮かべた。


 彼女がこちらへ一歩踏み出した瞬間、アルダシールは鼻を突く「甘い匂い」に眩暈めまいを覚えた。


「俺は、すぐに発つ。治療などいらん」


「その身体で? 冗談はやめて。筋肉は凍りつき、魂はボロボロよ。このまま山を越えれば、三日も持たずに狼の餌ね」


 メイファの声は、驚くほど自然にアルダシールの警戒心を解いていく。彼女は手際よく、湯気の立つ茶碗を差し出した。


「飲みなさい。私の特製よ。痛みも、悲しみも、すべて癒やしてくれるわ」


 アルダシールは差し出された茶碗を睨みつけた。洞窟の老人も、この女も、得体の知れないものを飲ませようとする。


「毒か」


「ふふ、初対面の人に毒を盛るほど、私は暇じゃないわ。これは『救い』よ。今のあなたには、何よりも必要な」


 アルダシールは、迷った末にそれを一気に飲み干した。


 甘い。


 そして、鼻に抜ける香りが脳の深部を痺れさせる。


「どう? 少しは楽になった?」


「ああ。悪くない」


 アルダシールの返答が、自分でも驚くほど穏やかになっていた。


 あれほど激しく燃えていた復讐の炎が、霧に包まれたように遠のいていく。


 日本。アリア。影喰。


 それらの言葉が、急激に色彩を失い、現実味をなくしていく。


 ボォが、傍らで目を細めて彼を見ていた。


「メイファ。この男は、東の国へ行くと言っている」


「あら、そう。でも、今日くらいはゆっくり休んでもいいじゃない。ねえ、アルダシールさん?」


 アルダシールは、ぼんやりと彼女の瞳を見つめた。


 瞳の中に、小さな青い光が揺れているように見えた。


「そうだな。少し、眠い」


 七尺の巨躯が、崩れるように椅子に沈んだ。


 その夜から、アルダシールの「千年の旅」は、甘い香りの霧の中に停止した。


 彼はまだ知らない。


 この安らぎこそが、自らの血に焼き付いた「宿命」を消し去るための、最も残酷な檻であることを。


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