記憶喪失のフリをして安息を選んだら、癒やし系の妻と出会ってしまった
シャングリ・ラの雪嶺を下り、雲海を抜けた先にその集落はあった。
切り立った岩肌にへばりつくように建つ石造りの家々。
「爺さん。あんた、名前は」
アルダシールが、前を歩く背中に問いかけた。
「ボォだ。ルマ・ボォ。この爾瑪の里の長を任されている」
ボォが足を止め、手にした杖で地面を叩いた。
「ここが、我ら失われた民の隠れ里だ。若いの、お前さんのことはなんと呼べばいい」
「アルダシールだ。それ以上は、忘れた」
「ほう。忘れたか。よし、なら今はただの旅人として、ここで牙を休めるがいい」
ボォはそれ以上何も聞かず、集落の広場へと歩を進めた。
七尺二寸の巨躯が村に入ると、空気は一変した。村の子供たちが遠巻きに彼を見上げ、怯えたように親の陰に隠れる。
「おい、ボォ。言っておくが俺は農夫でも羊飼いでもない。剣を振るうこと以外、何もできんぞ」
「剣など、この地ではただの鉄屑だよ。まずは、その荒んだ『目』をどうにかしろ」
ボォが立ち止まったのは、広場に面した一軒の家だった。清涼な薬草の香りが漂っている。
「メイファ、いるか。新しい患者を連れてきたぞ」
家の奥から、一人の女が姿を現した。
アルダシールは、思わず息を呑んだ。
メイファ。
アリアが儚い月光だとしたら、この女は湿り気を帯びた肥沃な大地のような、強い生命力を放っていた。
「あら、まあ。本当に大きな人ね」
女は驚いたように目を丸くしたが、すぐに柔らかな微笑を浮かべた。
彼女がこちらへ一歩踏み出した瞬間、アルダシールは鼻を突く「甘い匂い」に眩暈を覚えた。
「俺は、すぐに発つ。治療などいらん」
「その身体で? 冗談はやめて。筋肉は凍りつき、魂はボロボロよ。このまま山を越えれば、三日も持たずに狼の餌ね」
メイファの声は、驚くほど自然にアルダシールの警戒心を解いていく。彼女は手際よく、湯気の立つ茶碗を差し出した。
「飲みなさい。私の特製よ。痛みも、悲しみも、すべて癒やしてくれるわ」
アルダシールは差し出された茶碗を睨みつけた。洞窟の老人も、この女も、得体の知れないものを飲ませようとする。
「毒か」
「ふふ、初対面の人に毒を盛るほど、私は暇じゃないわ。これは『救い』よ。今のあなたには、何よりも必要な」
アルダシールは、迷った末にそれを一気に飲み干した。
甘い。
そして、鼻に抜ける香りが脳の深部を痺れさせる。
「どう? 少しは楽になった?」
「ああ。悪くない」
アルダシールの返答が、自分でも驚くほど穏やかになっていた。
あれほど激しく燃えていた復讐の炎が、霧に包まれたように遠のいていく。
日本。アリア。影喰。
それらの言葉が、急激に色彩を失い、現実味をなくしていく。
ボォが、傍らで目を細めて彼を見ていた。
「メイファ。この男は、東の国へ行くと言っている」
「あら、そう。でも、今日くらいはゆっくり休んでもいいじゃない。ねえ、アルダシールさん?」
アルダシールは、ぼんやりと彼女の瞳を見つめた。
瞳の中に、小さな青い光が揺れているように見えた。
「そうだな。少し、眠い」
七尺の巨躯が、崩れるように椅子に沈んだ。
その夜から、アルダシールの「千年の旅」は、甘い香りの霧の中に停止した。
彼はまだ知らない。
この安らぎこそが、自らの血に焼き付いた「宿命」を消し去るための、最も残酷な檻であることを。




