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アルダシールと銀華~千年の時空を駆ける鬼と狐の恋物語  作者: 秋津ネオ


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29/110

記憶喪失のフリをして安息を選んだら、癒やし系の妻と出会ってしまった

 

 凍てつく雪嶺を下り、どこまでも続く雲海を突き抜けた先に、その集落は静かに佇んでいた。


 頭上を覆うのは、青空ではなく湿り気を帯びた濃い霧だった。切り立った灰色の岩肌に這うようにして、粗末な石造りの家々が押し身を寄せ合っている。風が吹くたび、どこか遠くで乾いた木々が擦れ合う音が微かに響いていた。


 「爺さん。あんた、名前はなんていうんだ」


 アルダシールは七尺を超える巨躯をわずかに丸め、前方を歩く老人に問いかけた。背負った剣が、歩むごとにカチャリと不穏な金属音を立てる。


 老人は手に持った黒い木の杖で、足元の湿った岩を叩いた。


 「ボォだ。ルマ・ボォ。このエルマの里の長を任されている老いぼれさ。ここが我ら失われた民の隠れ里だ。若いの、お前さんのことはなんと呼べばいい」


 「アルダシールだ。それ以上は、忘れた」


 「ほう。忘れたか。まあいい、忘れたのなら好都合だ。過去など、この深い霧の底に沈めてしまえばいい」


 ボォは振り返りもせず、カラカラと軽く笑った。


 「よし、なら今はただの流民として、ここで傷ついた牙を休めるがいい」


 二人が集落の広場へと足を踏み入れると、周りの気配が一瞬で固まった。


 石造りの陰から、泥に汚れた服を着た子供たちが顔を覗かせていたが、アルダシールの姿を見た瞬間に悲鳴のような息を呑み、親の背後へと隠れてしまった。大人たちの視線も同様だった。怯えと警戒、そして異物を見るような冷ややかな光が、大男の全身に突き刺さる。


 (無理もない。こんな山奥に、血の匂いを纏った巨漢が現れれば誰だって身構える)


 アルダシールは己の分厚い掌を見つめた。擦り切れた革の手袋の隙間から、アリアを埋葬した際に付いた黒い土と、乾いた血の跡が覗いていた。


 「おい、ボォ。言っておくが俺は農夫でも羊飼いでもないぞ。剣を振るうことと、人の命を奪うこと以外、何ひとつできん」


 「剣など、この地ではただの薪を割る鉄屑だよ。いくら刃を研ごうが、腹の足しにはならん」


 ボォは気に留めた様子もなく、杖を突いて進む。


 「まずは、その眼だ。死に場所を探すような荒んだ眼をどうにかしろ。見ているこちらまで気が滅入る」


 ボォが足を止めたのは、石造りの家々の中でも一際大きく、屋根から白い湯気が立ち上っている建物の前だった。引き戸の隙間から、甘く清涼な薬草の香りが鼻腔をくすぐってくる。


 「メイファ、いるか。新しい患者を連れてきたぞ」


 ボォが声をかけると、奥の厚い布のカーテンがゆっくりと持ち上がった。


 「あら、おじいちゃん。今日はどんな怪我人かしら」


 姿を現した女を見て、アルダシールは不意に息を詰めた。


 (女か。薬草摘みの娘か)


 メイファと名付けられたその女性は、アルダシールの胸の高さほどしかない小柄な身体つきをしていた。だが、その佇まいは異質だった。


 かつて愛したアリアが、いつ消えてもおかしくない儚い月光だとしたら、この女は雨をたっぷり吸い込んだ肥沃な大地そのものだった。艶やかな黒髪、健康的で小麦色の肌、そして何より、その全身から溢れ出る強い生命力の気配。


 メイファはアルダシールの巨躯を見上げ、驚いたように琥珀色の目を丸くした。


 「あら、まあ。本当に大きな人ね。どこから入ってきたのかしら」


 「道端で拾ったのさ。心も体も凍りついたディーヴの男だ」


 ボォがそう言い残すと、背を向けて去っていこうとした。


 「おい、ボォ。待て」


 「俺は医者ではない。そこから先はメイファの仕事だ」


 老人は手だけを振り、深い霧の奥へと消えてしまった。


 残されたアルダシールは、狭い入口で立ち尽くした。部屋の中からは、乾かした薬草の匂いと、煮立った湯の甘い香りが漂っている。


 「立ち話もなんだから、中へ入って。天井が低いから、頭をぶつけないように気をつけてね」


 メイファは親しげに笑うと、部屋の奥へと歩いていった。


 (警戒心がないのか。それとも、俺のような男を見慣れているのか)


 アルダシールは屈みながら、狭い入口を潜り抜けた。室内には薬草の束がいくつも吊るされ、土器の鍋がパチパチと薪の音を立てて煮立っている。


 「俺は、すぐに発つ。手当などいらん」


 アルダシールは壁に背を預け、腕を組んだ。立ち去ろうと口では言いながらも、足が動かない。猛吹雪を歩き続けた身体は限界を迎えており、膝の奥が微かに震えていた。


 「その身体で? 冗談はやめて」


 メイファが振り返り、呆れたように小さく溜め息をついた。


 「筋肉はすっかり凍りつき、目の奥はボロボロじゃない。そのまま外へ出たら、今度こそ二度と起き上がれなくなるわよ。山を下りる前に狼の餌になるのが落ちね」


 「俺の身は、俺が決める」


 「いいえ、私の目の前にいる以上、患者の身は私が決めるの」


 メイファの声には、拒絶を許さない不思議な力強さがあった。彼女は棚から土器の器を取り出すと、煮立っていた鍋から深緑色の液体を注ぎ入れた。湯気とともに、甘く、どこか懐かしい香りが部屋中に広がる。


 「これを飲みなさい。私の特製よ。身体の芯から温まるわ」


 メイファは器を差し出し、アルダシールの目の前まで歩み寄ってきた。


 距離が縮まる。アルダシールは無意識に息を殺した。彼女の肌から、生きている人間の確かな体温と、甘い薬草の匂いが伝わってくる。アリアを失ったあの冷たい雪山の記憶が、一瞬だけ遠のくような錯覚を覚えた。


 「毒か」


 アルダシールは鋭い視線で器を見下ろした。


 「ふふ、初対面の人に毒を盛るほど暇じゃないわよ。それに、毒を入れるならもっと綺麗な色にするわ」


 メイファはくすくすと嬉しそうに笑った。その笑い声は、石造りの狭い部屋に柔らかく反響する。


 「これは救いよ。今のあなたには、何よりも必要なもの」


 「救いだと」


 (そんなものが、俺に残されているはずがない。俺はアリアを見殺しにし、亡骸を冷たい石の下に埋めてきた男だ)


 「いいから、黙って飲んで。残したら承知しないから」


 強引に手渡された土器の器から、じんわりとした熱が指気に伝わってきた。アルダシールは覚悟を決め、深緑色の液体を一気に喉へと流し込んだ。


 「ぐっ」


 口の中に広がるのは、強烈な苦味と、それを追いかけるような濃厚な甘みだった。熱い液体が胃に落ちた瞬間、体内で何かが爆発したかのような感覚が走った。


 「なんだ、これは」


 「驚いた? 自慢の薬草茶よ。体内の滞った血を無理やり巡らせるの」


 メイファが満足そうに胸を張る。


 効果は一瞬で現れた。凍りついていた手足の指先に、痛いほどの熱が駆け巡る。それだけではない。こめかみの奥でドクン、ドクンと不快に脈打っていた激しい頭痛が、急速に引いていくのが分かった。


 (痛みが消えていく。脳の奥を刺していたあの不吉な熱が、みるみる引いていく)


 「どう? 少しは楽になった?」


 メイファが覗き込むようにして尋ねてくる。彼女の琥珀色の瞳の奥に、吸い込まれそうなほど深い光が宿っていた。


 「ああ。悪くない」


 アルダシールは自分でも驚くほど、穏やかな声を出していた。


 胸の中で激しく燃え盛っていた復讐の炎や、アリアを失った絶望の刃が、甘い霧に包まれたようにゆっくりと形を失っていく。荒れ狂っていた心が、穏やかな波に洗われていくようだった。


 「よかった。あなた、本当につらそうな顔をしていたから」


 メイファは安堵したように微笑み、アルダシールの着物の袖にそっと手を添えた。その手のひらは驚くほど温かかった。


 「メイファ、患者の具合はどうだ」


 部屋の入口の布がめくられ、ボォが顔を出した。老人は二人の様子を交互に見比べると、満足そうに髭を撫でた。


 「ボォ。この男は、もう大丈夫よ。しっかりとお茶も飲んでくれたわ」


 「そうか。アルダシールよ、お前さんは東の国へ行くと死んだ目をして語っていたが、どうだ。今日くらいは、ここでゆっくりと休んでいったらどうだ」


 ボォの問いかけに、アルダシールは手元の空になった器を見つめた。


 指先にはまだ熱が残っている。外は荒れ狂う猛吹雪と、刺すような冷気だ。


 (東へ行かねばならない。日本へ渡り、アリアの魂の行方を追わねばならないのだ)


 頭ではそう理解しているはずなのに、身体が重く、一歩も動かそうとしなかった。この温かい部屋と、甘い薬草の香り、そして目の前の女が放つ圧倒的な生命の気配が、彼の足を強く繋ぎ止めていた。


 「そうだな。少し、眠い」


 アルダシールの口から、自然と諦めを含んだ言葉が漏れた。


 「ええ、そうしなさい。奥に柔らかい干し草のベッドがあるわ。そこで好きなだけ眠るといいわ」


 メイファが優しく手招きをする。


 アルダシールは巨躯を揺らしながら、奥の部屋へと歩を進めた。干し草の上に横たわると、身体が沈み込むような深い疲労感が一気に押し寄せてきた。


 瞼が重くなる。視界が暗転していく中で、最後に見たのは、土鍋の湯気の向こうで穏やかに微笑むメイファの姿だった。


 (俺は逃げたのかもしれない。絶望から、そして過酷な宿命から。この甘い安らぎの中に)


 胸の奥で小さな罪悪感が渦巻いたが、それすらも薬草茶の熱によって溶かされていく。


 西の大陸から流れてきた傷ついた男は、こうして雲南の深い霧の底で、仮初めの安息へと深く沈んでいったのだった。


 

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