記憶喪失のフリをして安息を選んだら、癒やし系の妻と出会ってしまった
凍てつく雪嶺を下り、どこまでも続く雲海を突き抜けた先に、その集落は静かに佇んでいた。
頭上を覆うのは、青空ではなく湿り気を帯びた濃い霧だった。切り立った灰色の岩肌に這うようにして、粗末な石造りの家々が押し身を寄せ合っている。風が吹くたび、どこか遠くで乾いた木々が擦れ合う音が微かに響いていた。
「爺さん。あんた、名前はなんていうんだ」
アルダシールは七尺を超える巨躯をわずかに丸め、前方を歩く老人に問いかけた。背負った剣が、歩むごとにカチャリと不穏な金属音を立てる。
老人は手に持った黒い木の杖で、足元の湿った岩を叩いた。
「ボォだ。ルマ・ボォ。このエルマの里の長を任されている老いぼれさ。ここが我ら失われた民の隠れ里だ。若いの、お前さんのことはなんと呼べばいい」
「アルダシールだ。それ以上は、忘れた」
「ほう。忘れたか。まあいい、忘れたのなら好都合だ。過去など、この深い霧の底に沈めてしまえばいい」
ボォは振り返りもせず、カラカラと軽く笑った。
「よし、なら今はただの流民として、ここで傷ついた牙を休めるがいい」
二人が集落の広場へと足を踏み入れると、周りの気配が一瞬で固まった。
石造りの陰から、泥に汚れた服を着た子供たちが顔を覗かせていたが、アルダシールの姿を見た瞬間に悲鳴のような息を呑み、親の背後へと隠れてしまった。大人たちの視線も同様だった。怯えと警戒、そして異物を見るような冷ややかな光が、大男の全身に突き刺さる。
(無理もない。こんな山奥に、血の匂いを纏った巨漢が現れれば誰だって身構える)
アルダシールは己の分厚い掌を見つめた。擦り切れた革の手袋の隙間から、アリアを埋葬した際に付いた黒い土と、乾いた血の跡が覗いていた。
「おい、ボォ。言っておくが俺は農夫でも羊飼いでもないぞ。剣を振るうことと、人の命を奪うこと以外、何ひとつできん」
「剣など、この地ではただの薪を割る鉄屑だよ。いくら刃を研ごうが、腹の足しにはならん」
ボォは気に留めた様子もなく、杖を突いて進む。
「まずは、その眼だ。死に場所を探すような荒んだ眼をどうにかしろ。見ているこちらまで気が滅入る」
ボォが足を止めたのは、石造りの家々の中でも一際大きく、屋根から白い湯気が立ち上っている建物の前だった。引き戸の隙間から、甘く清涼な薬草の香りが鼻腔をくすぐってくる。
「メイファ、いるか。新しい患者を連れてきたぞ」
ボォが声をかけると、奥の厚い布のカーテンがゆっくりと持ち上がった。
「あら、おじいちゃん。今日はどんな怪我人かしら」
姿を現した女を見て、アルダシールは不意に息を詰めた。
(女か。薬草摘みの娘か)
メイファと名付けられたその女性は、アルダシールの胸の高さほどしかない小柄な身体つきをしていた。だが、その佇まいは異質だった。
かつて愛したアリアが、いつ消えてもおかしくない儚い月光だとしたら、この女は雨をたっぷり吸い込んだ肥沃な大地そのものだった。艶やかな黒髪、健康的で小麦色の肌、そして何より、その全身から溢れ出る強い生命力の気配。
メイファはアルダシールの巨躯を見上げ、驚いたように琥珀色の目を丸くした。
「あら、まあ。本当に大きな人ね。どこから入ってきたのかしら」
「道端で拾ったのさ。心も体も凍りついたディーヴの男だ」
ボォがそう言い残すと、背を向けて去っていこうとした。
「おい、ボォ。待て」
「俺は医者ではない。そこから先はメイファの仕事だ」
老人は手だけを振り、深い霧の奥へと消えてしまった。
残されたアルダシールは、狭い入口で立ち尽くした。部屋の中からは、乾かした薬草の匂いと、煮立った湯の甘い香りが漂っている。
「立ち話もなんだから、中へ入って。天井が低いから、頭をぶつけないように気をつけてね」
メイファは親しげに笑うと、部屋の奥へと歩いていった。
(警戒心がないのか。それとも、俺のような男を見慣れているのか)
アルダシールは屈みながら、狭い入口を潜り抜けた。室内には薬草の束がいくつも吊るされ、土器の鍋がパチパチと薪の音を立てて煮立っている。
「俺は、すぐに発つ。手当などいらん」
アルダシールは壁に背を預け、腕を組んだ。立ち去ろうと口では言いながらも、足が動かない。猛吹雪を歩き続けた身体は限界を迎えており、膝の奥が微かに震えていた。
「その身体で? 冗談はやめて」
メイファが振り返り、呆れたように小さく溜め息をついた。
「筋肉はすっかり凍りつき、目の奥はボロボロじゃない。そのまま外へ出たら、今度こそ二度と起き上がれなくなるわよ。山を下りる前に狼の餌になるのが落ちね」
「俺の身は、俺が決める」
「いいえ、私の目の前にいる以上、患者の身は私が決めるの」
メイファの声には、拒絶を許さない不思議な力強さがあった。彼女は棚から土器の器を取り出すと、煮立っていた鍋から深緑色の液体を注ぎ入れた。湯気とともに、甘く、どこか懐かしい香りが部屋中に広がる。
「これを飲みなさい。私の特製よ。身体の芯から温まるわ」
メイファは器を差し出し、アルダシールの目の前まで歩み寄ってきた。
距離が縮まる。アルダシールは無意識に息を殺した。彼女の肌から、生きている人間の確かな体温と、甘い薬草の匂いが伝わってくる。アリアを失ったあの冷たい雪山の記憶が、一瞬だけ遠のくような錯覚を覚えた。
「毒か」
アルダシールは鋭い視線で器を見下ろした。
「ふふ、初対面の人に毒を盛るほど暇じゃないわよ。それに、毒を入れるならもっと綺麗な色にするわ」
メイファはくすくすと嬉しそうに笑った。その笑い声は、石造りの狭い部屋に柔らかく反響する。
「これは救いよ。今のあなたには、何よりも必要なもの」
「救いだと」
(そんなものが、俺に残されているはずがない。俺はアリアを見殺しにし、亡骸を冷たい石の下に埋めてきた男だ)
「いいから、黙って飲んで。残したら承知しないから」
強引に手渡された土器の器から、じんわりとした熱が指気に伝わってきた。アルダシールは覚悟を決め、深緑色の液体を一気に喉へと流し込んだ。
「ぐっ」
口の中に広がるのは、強烈な苦味と、それを追いかけるような濃厚な甘みだった。熱い液体が胃に落ちた瞬間、体内で何かが爆発したかのような感覚が走った。
「なんだ、これは」
「驚いた? 自慢の薬草茶よ。体内の滞った血を無理やり巡らせるの」
メイファが満足そうに胸を張る。
効果は一瞬で現れた。凍りついていた手足の指先に、痛いほどの熱が駆け巡る。それだけではない。こめかみの奥でドクン、ドクンと不快に脈打っていた激しい頭痛が、急速に引いていくのが分かった。
(痛みが消えていく。脳の奥を刺していたあの不吉な熱が、みるみる引いていく)
「どう? 少しは楽になった?」
メイファが覗き込むようにして尋ねてくる。彼女の琥珀色の瞳の奥に、吸い込まれそうなほど深い光が宿っていた。
「ああ。悪くない」
アルダシールは自分でも驚くほど、穏やかな声を出していた。
胸の中で激しく燃え盛っていた復讐の炎や、アリアを失った絶望の刃が、甘い霧に包まれたようにゆっくりと形を失っていく。荒れ狂っていた心が、穏やかな波に洗われていくようだった。
「よかった。あなた、本当につらそうな顔をしていたから」
メイファは安堵したように微笑み、アルダシールの着物の袖にそっと手を添えた。その手のひらは驚くほど温かかった。
「メイファ、患者の具合はどうだ」
部屋の入口の布がめくられ、ボォが顔を出した。老人は二人の様子を交互に見比べると、満足そうに髭を撫でた。
「ボォ。この男は、もう大丈夫よ。しっかりとお茶も飲んでくれたわ」
「そうか。アルダシールよ、お前さんは東の国へ行くと死んだ目をして語っていたが、どうだ。今日くらいは、ここでゆっくりと休んでいったらどうだ」
ボォの問いかけに、アルダシールは手元の空になった器を見つめた。
指先にはまだ熱が残っている。外は荒れ狂う猛吹雪と、刺すような冷気だ。
(東へ行かねばならない。日本へ渡り、アリアの魂の行方を追わねばならないのだ)
頭ではそう理解しているはずなのに、身体が重く、一歩も動かそうとしなかった。この温かい部屋と、甘い薬草の香り、そして目の前の女が放つ圧倒的な生命の気配が、彼の足を強く繋ぎ止めていた。
「そうだな。少し、眠い」
アルダシールの口から、自然と諦めを含んだ言葉が漏れた。
「ええ、そうしなさい。奥に柔らかい干し草のベッドがあるわ。そこで好きなだけ眠るといいわ」
メイファが優しく手招きをする。
アルダシールは巨躯を揺らしながら、奥の部屋へと歩を進めた。干し草の上に横たわると、身体が沈み込むような深い疲労感が一気に押し寄せてきた。
瞼が重くなる。視界が暗転していく中で、最後に見たのは、土鍋の湯気の向こうで穏やかに微笑むメイファの姿だった。
(俺は逃げたのかもしれない。絶望から、そして過酷な宿命から。この甘い安らぎの中に)
胸の奥で小さな罪悪感が渦巻いたが、それすらも薬草茶の熱によって溶かされていく。
西の大陸から流れてきた傷ついた男は、こうして雲南の深い霧の底で、仮初めの安息へと深く沈んでいったのだった。




