(第二章)【最強の軍人】ササン朝の生き残りが、雪山の隠れ里で老人に拾われた件
地面を掘る指先は、とうに感覚を失っていた。
岩の混じった硬い土が、アルダシールの爪を剥ぎ、血を凍らせる。
それでも彼は、土を掻き出すのを止めなかった。
隣には、ただ物言わぬ肉体となった少女が横たわっている。
「すまない、アリア。こんな、何もないところで」
声が震えた。
銀華が魂を抱いて東へ飛び去った夜、アルダシールから色彩が消えた。
残されたのは、急速に冷えていく残滓と、吹きつける雪だけだ。
ようやく掘り起こした浅い穴に、彼は少女を静かに下ろした。
せめて獣に荒らされぬよう、重い石をいくつも積み上げる。
それが終わったとき、アルダシールは膝をついた。
もはや、立ち上がる理由がどこにも見当たらなかった。
雪が、すべてを白く塗り潰そうとしている。
このまま、自分もこの冷たい静寂の一部になればいい。
「……おい、若いの。寝るにはまだ早い」
不意に、枯れ木が擦れるような声が響いた。
アルダシールは、重い瞼を持ち上げた。
霞む視界の先に、小さな火が揺れている。
いつの間にか、雪の中に煤けたランプの光があった。
光の主に引きずられるようにして辿り着いたのは、岩壁に口を開けた狭い洞窟だった。
煤けた光に照らされて、一人の老人が座っている。
「誰だ」
アルダシールは、凍りついた喉から声を絞り出した。
「通りすがりの羊飼いだよ。お前さんがさっきから、うわごとのように呼んでいるその名前……アリアといったか? 安心しろ、あの墓石は俺の一族が守ってやろう」
アルダシールの目が、鋭く細められた。
絶望の中で名前を漏らしていたのか。
老人は、焚き火にかけた煤けた鍋から、木椀にスープを注いだ。
「飲め。死にぞこなうにしても、腹が減っていては冥府の門番に笑われる」
差し出された椀。
アルダシールはそれを無視し、腰のナイフに手をかけた。
「そのスープには、毒が入っている」
老人は、愉快そうに鼻を鳴らした。
「毒か。死にぞこないに毒を盛るほど、うちは贅沢じゃないよ」
「嘘をつけ。人間は、嘘をつく生き物だ」
「ほう。じゃあ、お前さんは人間じゃないのか?」
老人の問いに、アルダシールの指が止まった。
自分の中に眠る、どす黒い衝動。黒海周辺の部族に伝わる、人ならざる力。
「俺は、ディーヴ(魔神)だ。オーガの血が混じっている」
「ディーヴ、ねえ。そいつは重畳。人ならざる者なら毒など効かんだろう」
老人は強引に椀をアルダシールの手に握らせた。
指先に、痛いほどの熱が走る。
「お前さん、チャン族(羌族)を知っているか?」
「知らん。俺は、西から来た。ササン朝の軍人だ」
「ササン朝か。遠くから来たもんだ。だが、我らも遠くから来た。我らは失われたユダヤの民。遥か昔から、この地で『東』を待っている一族だ」
「……何を言っている。訳がわからん」
「わかる必要はない。だが、お前さんがさっき、アリアという名と一緒に叫んでいた『白い影』……あの狐を追うなら、我らの言葉を聞くがいい」
狐、という言葉にアルダシールの身体が跳ねた。
「なぜ、銀華のことを知っている」
「あの眩しい光が空を裂けば、嫌でも目に入る。あれは東へ飛んだ。レピとカド、我が同族の王たちが築いた『日本』という国を目指してな」
老人は立ち上がり、洞窟の奥にある、白い石が積まれた祭壇を指差した。
「そこに行けば、どんな願いも叶うという。不老不死の仙薬。魂を繋ぎ止める術。お前さんが土に還したあの娘を、呼び戻す方法もな」
アルダシールは、祭壇を見つめた。
ガンダーラ。
かつて西域の商人たちが語っていた、理想郷の噂が頭をよぎる。
「……行けるのか。このディーヴの身体で、その日本という場所へ」
「道は険しいぞ。影喰の呪いが、お前さんの足を止めに来るだろう。だが、行かねば一生、雪の中でアリアの名を呼ぶだけの屍だ」
アルダシールは、空になった椀を地面に置いた。
「スープの代金は、日本で払う」
立ち上がった男の背中が、洞窟の岩肌に巨大な影を落とした。
宿命の歯車が、重い音を立てて回り始めた。




