(第二章)ササン朝の生き残りが、雪山の隠れ里で老人に拾われた件
地面を掘り進める指先は、とうに感覚を完全に失っていた。
(もう爪が剥がれているのか。血が出ているのかすら解らない。指先が氷のように冷たい)
岩の混じった硬い土が、容赦なくアルダシールの肉を削り、体温を奪っていく。それでも彼は、泥と氷を掻き出す手を止めなかった。すぐ隣には、ただ物言わぬ肉体となった少女アリアが横たわっている。
「すまない、アリア。こんな、何もない寒村の片隅で。お前を安らかに眠らせることすらできないとは」
吐き出す息すら白く凍りつく。声を震わせても、応える者は誰もいなかった。
あの惨劇の夜、少女の胸元から解き放たれた白狐、銀華がアリアの魂を抱いて東の空へと飛び去った。その瞬間から、アルダシールの世界からは完全に色彩が消え去ったのだった。残されたのは、指先に残る急速に冷えていく残滓と、叩きつけるような猛吹雪だけだ。
(俺はまた、大切な者を守れなかった。ペルシャの宮廷でも、この極寒の地でも、俺の腕は何も引き止められない)
ようやく掘り起こした浅い穴に、彼はアリアの体を静かに下ろした。せめて野獣の牙から守るため、冷たく重い石をいくつもいくつも積み上げていく。
(これで俺の役目は終わったのだろうか。命を繋ぐ理由が、もうどこにも見当たらない)
最後の石を置き終えたとき、アルダシールは膝をついた。膝頭が凍りついた岩にめり込み、鈍い音を立てる。
全身を覆う猛吹雪が、世界を白く塗り潰していく。このまま意識を放り出し、冷たい静寂の一部になってしまえばどれほど楽になれるだろうか。視界が徐々にセピア色に染まり、思考が途切れそうになる。
「おい、若いの。そんな場所で寝てしまっては、二度と起き上がれなくなるぞ」
不意に、枯れ木が擦れ合うような掠れた声が吹雪を裂いて響いた。
アルダシールは重い瞼を持ち上げた。霞む視界の先、暗闇の中にポツンと小さな火が揺れている。いつの間にか、雪の中に煤けたランプを掲げた影が立っていた。
「誰だ」
「通りすがりの羊飼いさ。お前さんがさっきから、うわごとのように呼んでいる名前、アリアといったか。安心しろ、あの墓石なら俺たち一族の者が荒らされぬよう守ってやる」
「なに」
アルダシールの目が、猛獣のように鋭く細められた。
(絶望のなかで、俺はアリアの名を漏らしていたというのか。己の不覚さに反吐が出る)
ランプの影に引きずられるようにして辿り着いたのは、切り立った岩壁にポッカリと口を開けた狭い洞窟だった。煤けた光に照らされた奥で、一人の老人が小さな焚き火の前に座っている。
「飲め。死にぞこなうにしても、腹が減っていては冥府の門番に鼻で笑われるぞ」
老人はぐつぐつと煮立つ鍋から、木彫りの椀へスープを注いで差し出した。湯気とともに、見慣れぬ薬草の香りが鼻をくすぐる。
アルダシールはその椀を無視し、腰のナイフの柄へ静かに手をかけた。
「そのスープには、毒が入っているのだろう」
「かっかっか」
老人は愉快そうに細い肩を揺らした。
「毒だと。死にぞこないにわざわざ貴重な毒を盛るほど、うちの蔵は贅沢じゃないよ」
「嘘をつけ。人間は嘘をつく生き物だ。土壇場で裏切り、背後から刃を刺す。俺はそういう奴らを山ほど見てきた」
「ほう。じゃあ、お前さんは人間なのか」
老人の静かな問いかけに、アルダシールの指がピタリと止まった。
こめかみの奥がドクンと嫌な脈打ちを見せる。自分の中に静かに眠る、どす黒い殺意と圧倒的な破壊衝動。黒海周辺の部族に密かに伝わる、人ならざる力。
(俺は人間などではない。人を凌駕し、人を殺めるための歪んだ種だ)
「俺はディーヴだ。魔神の血、オーガの呪われた血が混ざっている」
「ディーヴ、ねえ。そいつは重畳。人ならざる者なら、多少の毒など屁でもなかろう」
老人は強引に椀をアルダシールの掌へ握らせた。刺すような熱が、凍えていた皮膚から全身へと駆け巡る。
「お前さん、チャン族という名を聞いたことはあるか」
「知らん。俺は西の果てから来た。ササン朝の軍人だった男だ」
「ササン朝か。随分と遠くから流れてきたもんだ。だが、我らも遠くから来た。失われたユダヤの民。遥か昔から、この地の底で東を待ち続けている一族だ」
椀を持つ手を固まらせるアルダシールを、老人は深い眼差しで見つめた。
「わかる必要はない。だが、お前さんが雪の中でアリアの名と一緒に叫んでいた白い影、あの狐を追うなら我らの言葉を素直に聞くがいい」
「なにを言っている」
狐という言葉に、アルダシールの巨躯が跳ねた。胸の奥で止まっていた時計の針が、ガタリと音を立てる。
「なぜ、銀華のことを知っている」
「あの眩しい光が夜空を裂けば、嫌でも目に入る。あれは東へ飛んだのさ。レピとカド、我が同族の王たちが築いた日本という約束の国を目指してな」
老人はゆっくりと立ち上がり、洞窟の奥深く、白い石が積まれた小さな祭壇を指差した。
「そこへ行けば、どんな願いも叶うという。不老不死の仙薬。魂を繋ぎ止める術。お前さんがそこに埋めてきたあの娘を、呼び戻す術とな」
(ガンダーラ。かつて西域の商人たちが、酒場で酔い潰れながら語っていた理想郷の噂のことか)
脳裏に、滅び去った故郷と、逃避行の果てに散ったアリアの笑顔が交錯する。
「行けるのか。この呪われたディーヴの体で、その日本という場所へ」
「道は果てしなく険しいぞ。影喰の呪いが、お前さんの足を引っぱり放すまい。だが、行かねば一生、あの雪山でアリアの名を呼び続けるだけの腐った屍だ」
アルダシールはスープを一気に飲み干すと、空になった椀をゴトンと地面に置いた。
「スープの代金は、日本で払う」
「かっかっか。威勢が戻ったな。覚えておくぞ、ササン朝の男」
立ち上がったアルダシールの七尺を超す巨躯が、洞窟の岩肌に巨大な黒い影を落とした。
滅びの淵から生還した男の足元で、宿命の歯車が再び重い音を立てて回り始めた。




