白狐、魂を抱いて昇る夜 (第一章 終)
風が止んだ。
さっきまで木々を揺らしていたざわめきが嘘のように消え、山は急に息を潜めた。
その静けさの中で、アリアの呼吸だけが、細く、細く、消え入りそうに響いていた。
アルダシールはアリアを抱きかかえたまま、膝をついて動けなかった。
腕の中の少女は、まるで熱を失った灯火のように軽く、頼りなかった。
額に触れると、熱はもう炎ではなく、深い井戸の底に沈むような奇妙な冷たさを帯びていた。
アリアが倒れる直前..
彼女の足元に落ちた影が、祠の奥から伸びた“影喰の影”と一瞬だけ重なった。
その瞬間、アリアの身体がびくりと震え、影が焼けるように揺れた。
あれがすべての始まりだった。
「アリア、聞こえるか。返事をしてくれ」
声は震え、喉の奥でつまった。
返事はない。
アリアの影は薄く揺れ、地面に落ちる輪郭が、霧のようにほどけていく。
胸の奥で、銀華の声が震えた。
「アルダシール。
アリアの魂が、ほどけ始めている」
「どうすれば助かる。言え、銀華!」
「助からない。
影喰の“影”と重なった時点で、アリアの魂は千年前の封印に引かれている。
あなたは耐えられるけれど……アリアは違う」
アルダシールは首を振った。
否定の言葉は出ない。
ただ、アリアの手を握りしめることしかできなかった。
そのとき、アリアの指がかすかに動いた。
「アル……ダ」
目がゆっくりと開き、弱い光が揺れた。
その光は、もうこの世界に長く留まれないことを告げていた。
「アリア! ここにいる、俺はここにいる!」
「ごめん…ね
でも、あなたと旅できてよかった」
その言葉は、夜の奥へ吸い込まれるように消えた。
アリアの胸が、静かに上下を止めた。
「アリア!アリア!」
アルダシールの叫びは、山の闇に吸い込まれた。
返事はない。
アリアの身体は、もうただの温もりの残滓だった。
その瞬間、アリアの胸元から白い光が立ち上った。
光は尾のように揺れ、空気を震わせる。
夜の闇が押し返され、木々の影が遠ざかる。
光の中心に、銀華が立っていた。
白い尾が一本、静かに揺れている。
その腕には、淡く光るアリアの魂。
銀華の瞳は、涙のように揺れていた。
「アルダシール、ありがとう。
あなたがいたから、アリアは最後まで生きられた」
アルダシールは涙を流しながら、銀華を見つめた。
「どこへ行く、銀華、アリアをどこへ連れていく」
「アリアの魂の故郷へ。
東の果て、日本へ。
そこに、彼女の影の記憶が眠っている」
銀華はアリアの魂を抱きしめた。
その姿は、母が子を抱くように優しく、痛々しかった。
「あなたは生きて。
アリアが愛した世界を、歩いて。
そしていつか、日本で会いましょう」
白い尾が大きく揺れ、光が夜空を裂いた。
銀華の身体はふわりと浮き上がり、アリアの魂とともに空へ昇っていく。
アルダシールはその光を追い、手を伸ばした。
届かない。
光は遠ざかり、夜空の奥へ吸い込まれていく。
「アリア」
その声は、誰にも届かないほど小さかった。
光が完全に消えたとき、
夜は深く、静かに閉じた。
アルダシールはアリアの亡骸を抱きしめたまま動けずにいた。
風が吹き、アリアの髪が揺れた。
その冷たさが、彼女がもう戻らないことを告げていた。
アルダシールはゆっくりと立ち上がり、 アリアの身体を胸に抱いたまま、夜の山を歩き出した。
その背中は、
光を失った世界を一人で歩く者のように、 深い影を引いていた。
第一章 終




