狐の胸騒ぎ
朝の古道は静かだった。昨夜の影のざわめきが遠い出来事のように思えるほど、空気は澄んでいた。アリアは胸の奥に残る銀華の声を思い返しながら歩いていた。あの囁きはまだ耳の奥に残っている。気をつけてという声が薄い膜のように心に張り付いていた。
前方から漂ってきた香りが、緊張をほどいていく。酸味と蒸気の甘い匂いが混ざり合い、旅の疲れを吸い取るようだった。
「いい匂いだな」
アリアがつぶやくと、アルダシールが前方を指差した。古びた木造の茶屋がぽつんと立っていた。山の中に突然現れたその建物は、まるで旅人を待っていたかのように見えた。
中に入ると、発酵の酸味と蒸気の香りが迎えてくれた。
「酸湯魚と汽鍋鶏をお願いします。あと米線も」
アリアが言うと、胸の奥で銀華が笑った気配がした。いい選択だという声が微かに響く。
運ばれてきた酸湯魚は赤いスープの中で川魚がふっくらと揺れていた。汽鍋鶏の蓋を開けると、蒸気と香りが柔らかく広がった。アルダシールは珍しく目を細めて言った。
「これはうまいな」
アリアは米線をすすりながら笑った。
「なんか元気が出る味だね」
胸の奥で銀華が嬉しそうに揺れた気配がした。私も好きだという声が優しく響いた。
食後、茶屋の娘がアリアを見て笑った。
「旅のお兄さん、かっこいいね。どこから来たの」
アリアは思わずむせた。アルダシールは困ったように目をそらす。胸の奥で銀華が拗ねた気配がした。あの娘は気に入らないと小さくつぶやく声が聞こえた。アリアは胸元を押さえたが、銀華はなんでもないと黙り込んだ。
店を出るとき、アリアは段差につまずいた。アルダシールが反射的に腕を掴んだ。
「大丈夫か」
「うん。ありがとう」
手の温度が伝わり、胸が少し跳ねた。銀華の声が胸の奥で震えた。
「アリア。その男に近づきすぎだ」
茶屋の裏手にある小さな丘に登ると、空は驚くほど澄んでいた。星がこぼれ落ちそうなほど広がっていた。
「綺麗だね」
「ペルシアの砂漠もこんな空だった」
「見てみたいな」
「いつか連れていく」
その言葉に銀華が胸の奥で震えた。千年前にも同じ言葉を聞いたという気配が揺れた。アリアは気づかないまま、胸の奥に小さな痛みを覚えた。
帰ろうとしたとき、丘の下に黒い足跡が点々と続いているのが見えた。人のものではない。獣のものでもない。影だけが地面に焼き付いたように残っていた。アルダシールが低くつぶやいた。
「来たな」
アリアの影が一瞬だけ揺れた。胸の奥で銀華の声が冷たく響いた。
「アリア。明日から本当に危なくなる」




