九つの尾
影の魔物が消えた谷には、静けさが戻っていた。
赤土の地面はまだ温かく、金色の光の余韻が残っている。
アリアは深く息を吐き、膝に手をついた。
「 はぁ、はぁ」
胸の奥で、銀華の気配がゆっくりと沈んでいく。
半覚醒の反動だろう。
アリアの瞳はすでに黒に戻っていたが、
体の奥に残る熱だけは消えなかった。
アルダシールがそっと肩を支えた。
「無理をするな。
半覚醒は、お前の身体に負担が大きい」
「うん、でも大丈夫」
アリアは微笑んだ。
その笑顔は少しだけ弱々しいが、
確かな強さが宿っていた。
アリア。
少し眠る。
銀華の声が、遠くなるように響いた。
「銀華?」
心配するな。
お前が恐れなかったから、私は力を貸せた。
今は休む。
その言葉を最後に、銀華の気配は静かに沈んだ。
アリアは胸に手を当て、そっと目を閉じた。
「ありがとう、銀華」
アルダシールは空を見上げた。
谷の上には薄い雲が流れ、
酸味を含んだ風が弱まっている。
「行こう。
次の村までは、まだ距離がある」
「うん」
二人は谷を後にし、南へ続く山道を歩き始めた。
山道を進むにつれ、空気が変わっていった。
酸味の風は弱まり、代わりに霧が濃くなる。
白い霧が足元を這い、
木々の影がぼんやりと揺れている。
「さっきより、静か」
アリアが呟いた。
「貴州の山を抜けつつある。
ここから先は、雲南の“入口”だ」
「雲南」
その言葉に、アリアの胸の奥が微かに熱を帯びた。
銀華が眠っているはずなのに、
その気配がほんの少しだけ反応した気がした。
「銀華?」
返事はない。
だが、アリアは確かに感じた。
この霧、この風
どこか懐かしい
そんな“記憶の影”のような感覚。
アルダシールはアリアの様子を見て、
静かに言った。
「南へ行くほど、銀華の力は強まる。
お前の中の“血”が反応しているのだろう」
「怖くはないよ。
むしろ落ち着く」
アリアは胸に手を当てた。
銀華の気配は眠っている。
だが、霧の奥に何かを感じているようだった。
霧の中を歩いていると、
古い石碑が道の脇に立っているのが見えた。
苔むし、文字はほとんど読めない。
だが、石碑の上部には
尾のような紋様が刻まれていた。
「これ」
「山の民の祠だ」
アルダシールが答えた。
「古い祓いの跡だろう。
この地方では、霊を“尾”で表すことがある」
アリアは石碑に触れた。
冷たい石の感触が指先に伝わる。
その瞬間、胸の奥がふっと熱くなった。
「銀華?」
返事はない。
だが、確かに反応した。
「アリア、離れろ」
アルダシールが言った。
「その石碑、何かを封じている可能性がある」
「うん」
アリアは手を離し、深呼吸した。
しばらく歩くと、
霧がさらに濃くなり、視界が白に染まった。
そのとき
たすけて
かすかな声が聞こえた。
アリアは立ち止まった。
「今の、聞こえた?」
「聞こえた」
アルダシールは右腕を押さえた。
黒い紋様が冷たく疼いている。
「影の主の残滓ではない。
これは“人の声”だ」
「でも、姿が見えない」
霧の奥から、また声がした。
だれか
たすけて
アリアは胸がざわついた。
銀華の気配が、眠りながらも微かに揺れる。
「銀華も、警戒してる」
「行くぞ。
声の主を確かめる」
二人は霧の奥へ進んだ。
霧が薄れたとき、
小さな村が姿を現した。
だが──
静かすぎた。
家々は並んでいるのに、
人の気配がほとんどない。
「誰もいない?」
「いや、いる」
アルダシールが低く言った。
「気配はある。
だが、隠れている」
アリアは村の中央にある祠に目を向けた。
祠の扉は半開きで、
中には古い木像が祀られている。
その木像の背後に──
九つの尾の紋様が刻まれていた。
「これ、銀華の?」
胸の奥が熱くなった。
銀華の気配が、眠りから覚めかける。
アリア
ここは
「銀華?」
懐かしい
これは“私の尾”
アリアは息を呑んだ。
「銀華、あなた、この村を?」
銀華の声は答えなかった。
ただ、深い記憶の底を探るように沈黙した。
そのとき
祠の奥から、
足音が聞こえた。
コツ、コツ
だが、その歩き方は
人間のものではなかった。
アルダシールがアリアを庇う。
「来るぞ!」
アリアの影が揺れ、
銀華の気配が目を覚まし始める。




