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アルダシールと銀華~千年の時空を駆ける鬼と狐の恋物語  作者: 秋津ネオ


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酸湯の村

 四川の山脈を抜けたとき、空気が変わった。

 霧は薄れ、代わりにどこか酸味を含んだ風が吹いていた。

 草木の匂いではない。

 もっと強く、もっと深い、発酵した香りだった。


 アリヤが立ち止まり、胸に手を当てた。

「空気が、違う」


 長安を出てから、季節がひとつ変わった。

 山の夜は冷たく、朝は白い露が草の先に光る。

 だが、今吹いている風は、四川の霧とはまったく違う匂いを運んでいた。


 アルダシールは周囲を見渡した。

 山の形が変わり、岩肌の色も違う。

 南へ進むほど、土地そのものが変わっていく。


「貴州に入った」

 彼は静かに言った。


 山道は細く、両側には苔むした岩が迫っていた。

 足元には赤土が混じり、四川の黒い土とは色が違う。

 風が吹くたび、どこか酸味を含んだ香りが漂った。


「酸っぱい匂い?」

 アリヤが鼻をひくつかせた。


「発酵の匂いだ。南へ行くほど強くなる」


 山道を下ると、小さな村が見えた。

 木と石で作られた家々が斜面に寄り添い、

 家の前には大きな壺がいくつも並んでいた。

 壺の蓋がわずかに開き、酸味の強い匂いが漂っていた。


 村人たちは無言だったが、敵意はなかった。

 旅人を見慣れているのだろう。

 老人が手招きし、二人を家へ招いた。


 家の中には、さらに強い酸味の匂いが満ちていた。

 大きな鍋で煮込まれていたのは、

 山の獣の肉と、発酵した根菜、そして赤いスープ。


 アリヤは一口飲んで、目を見開いた。


「酸っぱい、でも、体が軽くなる」


「酸湯だ」


 アルダシールは微笑んだ。


「この土地の力を、体に取り込む料理だ」


 アリヤはもう一口飲んだ。

 酸味が体の奥に染み込み、

 長安から続いていた疲れが溶けていくようだった。


 老人が、赤い壺を指さした。

 壺の中では、根菜と香草が泡を立てていた。

 発酵が生きている証だった。


「これ全部食べ物?」

 アリヤが驚いたように尋ねた。


「この土地の知恵だ」

 アルダシールは答えた。


「湿気と寒さを越えるために、酸味を育てる」


 アリヤは胸に手を当てた。

 その表情が変わった。


「影影の声、本当に聞こえない」


 アルダシールは頷いた。

「影の主の力は、ここまで届かん」


 右腕の黒が、布の下でわずかに疼いた。

 影の主の呪いは消えない。

 だが、進行は遅くなっているように感じた。


 老人が、霧の向こうを指さした。

 言葉は通じなかったが、

 その仕草は“南に行け”と言っているようだった。


 アリヤが不安そうに尋ねた。

「雲南、近い?」


「近い。だが、まだ山が続く」


 酸味の風が吹き抜けた。

 その風は、どこか懐かしい匂いを運んでいた。

 アルダシールの記憶の底に触れるような、

 遠い遠い昔の匂いだった。


 食事を終えると、二人は村を出た。

 酸味の風が背中を押すように吹いていた。


「南へ、行こう」

 アリヤが小さく呟いた。


「行くぞ」

 アルダシールは頷いた。


 雲南はまだ遠い。

 だが、酸味の風は確かに、

 二人を南へと導いていた。




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