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アルダシールと銀華~千年の時空を駆ける鬼と狐の恋物語  作者: 秋津ネオ


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香草スープと静かな夜

 

  長安を離れてから、季節がひとつ変わった。

 山の空気は冷たく、霧は深く、朝になると草の先に白い露が光った。

 四川の山脈は果てが見えず、歩いても歩いても、同じような岩壁と森が続いた。


 アルダシールは岩に腰を下ろし、右腕を布で覆った。

 黒は肩の近くまで広がり、皮膚の下で静かに脈打っていた。

 痛みはない。だが、確実に進んでいた。

 影の主の“手”に触れたあの夜から、黒は止まることを知らなかった。


 アリヤは焚き火のそばで、山の民から分けてもらった乾燥肉を煮ていた。

 香草の匂いが霧の中に広がり、冷えた空気をわずかに温めた。

 山の民は、肉を塩と香草で保存する。

 長安では嗅いだことのない匂いだった。


「この匂い、、、好き」

 アリヤが鍋を覗き込みながら呟いた。


「南へ行くほど、香草が増える」

 アルダシールは答えた。

「雲南に近づいている証だ」


 アリヤは湯気の向こうを見つめた。

 霧の奥で、鳥の声がひとつ響いた。

 長安では聞いたことのない声だった。

 高く、澄んでいて、どこか懐かしい響きがあった。


「影影の声が、聞こえない

 もう、ずっと」


「山が深い。影の主の力が届かんのだろう」


 アリヤは胸に手を当てた。

 その表情は、長安にいた頃よりも穏やかだった。

 影のざわめきが消えたことで、呼吸が深くなっていた。


 鍋が静かに煮立ち、香草の匂いがさらに強くなった。

 アリヤは木の匙で味を確かめ、目を丸くした。


「温かい 、辛くないのに体が、軽くなる」


「山の民の料理だ。寒さに効く」


 アルダシールは湯気を吸い込み、遠い記憶を探るように目を細めた。

 香草の匂いは、どこか懐かしかった。

 千年前の記憶の底に触れるような、微かな揺らぎがあった。


 食事を終えると、二人は再び歩き出した。

 霧は濃く、足元の石は滑りやすかった。

 だが、影の主の気配が消えたことで、心にわずかな余裕が生まれていた。


 山道を進むほど、風に混じる香草の匂いが強くなった。

 南へ行けば行くほど、空気の質そのものが変わっていくようだった。


「雲南は、まだ先?」

 アリヤが息を整えながら尋ねた。


「遠い。だが、確実に近づいている」


 アルダシールは空を見上げた。

 霧の切れ間から、細い月が覗いていた。

 その光は弱く、だが確かに二人の足元を照らしていた。


 右腕の黒は進んでいる。

 影の主の気配は消えた。

 香草の匂いは強くなる。

 南の空気は変わり始めている。


 雲南はまだ遠い。

 だが、旅は確かに前へ進んでいた。


 山を越える日々は、静かで、厳しく、そしてどこか優しかった。

 長安の喧騒も、影の主のざわめきも、ここには届かない。

 代わりにあるのは、風の音と、鳥の声と、霧の匂いだけだった。


 ある日の夕暮れ、二人は山の民の小さな集落に辿り着いた。

 木と石で作られた家々が斜面に寄り添うように並び、

 煙がいくつも空へ昇っていた。


 老人が二人を見つけ、手招きした。

 言葉は通じなかったが、敵意はなかった。

 山の民は旅人に寛容だった。


 家の中は温かく、香草の匂いが満ちていた。

 大きな鍋で煮込まれていたのは、山の獣の肉と、野草と、発酵させた根菜だった。


 アリヤは一口食べて、目を見開いた。


「酸っぱい!でも、美味しい」


「発酵だ」

 アルダシールは微笑んだ。

「山の民は、寒さを越えるために酸味を使う」


 老人は笑いながら、香草をひとつまみ鍋に入れた。

 匂いが一気に広がり、部屋の空気が変わった。


 アリヤはその匂いを吸い込み、目を細めた。


「この匂い、落ち着く」


 アルダシールはその横顔を見つめた。

 アリヤの頬には、長安では見られなかった血色が戻っていた。

 影の主の声が消えたことで、彼女の体は確かに回復しつつあった。


 だが、アルダシールの右腕の黒は、静かに広がり続けていた。

 布の下で、黒い脈動がゆっくりと進んでいる。

 影の主の呪いは、山の霊性をもってしても止まらなかった。


 夜、二人は山の民の家で休んだ。

 外では風が木々を揺らし、霧が窓を叩いていた。

 アリヤは深く眠り、静かな寝息を立てていた。


 アルダシールは眠れなかった。

 右腕の黒が、夜の静寂の中でわずかに疼いた。

 痛みではない。

 だが、確実に“何か”が進んでいる感覚があった。


 窓の外を見ると、霧の向こうに月が浮かんでいた。

 その光は弱く、だが確かに山を照らしていた。


「雲南まで、持つか」


 誰に聞かせるでもなく、アルダシールは呟いた。

 影の主の呪いは、彼の命を確実に削っていた。

 だが、アリヤを守るためには、南へ進むしかなかった。


 山の風が静かに吹き抜けた。

 その音は、遠い未来の気配を運んでいるようだった。




 翌朝、二人は再び歩き出した。

 山の民は香草の束と乾燥肉を渡し、無言で見送った。

 言葉は通じなくても、その優しさは十分に伝わった。


 霧の中を歩くほど、香草の匂いが強くなった。

 南へ行けば行くほど、空気が変わっていく。

 雲南の“霧の谷”が近い証だった。


 アリヤは振り返り、山の民の集落を見つめた。

 煙がゆっくりと空へ昇り、霧に溶けていった。


「また、来られるかな?」


「来られるさ」


 アルダシールは答えた。


「影の主がいなければ、どこへでも行ける」


 アリヤは小さく頷いた。

 その瞳には、長安では見られなかった光が宿っていた。


 山道はまだ続く。

 雲南はまだ遠い。

 だが、旅は確かに前へ進んでいた。




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