影根
外の空気は、思ったほど自由ではなかった。
木戸を抜けた瞬間、
アルダシールは息を呑んだ。
長安の外縁に広がるはずの朝の光は、
どこか濁っていた。
薄い靄が地面に貼りつき、
風の流れが不自然に止まっている。
宮殿の外に出たはずなのに、
まだ“内側”の気配が残っていた。
アリヤを支える腕に、
微かな震えが伝わった。
「……ここも……
影の主の“手”が触れてる……」
アリヤの声は弱い。
だがその奥に、
銀華の気配が微かに揺れていた。
アルダシールは周囲を見渡した。
人の姿がない。
鳥の声もない。
ただ、
“見えない何か”が空気を押し返している。
長安の街並みが、
薄い膜の向こう側にあるように見えた。
まるで世界そのものが、
影の主の意図に合わせて
ゆっくりと“裏返り始めている”ようだった。
「急ごう。
ここに長くはいられない」
アリヤの肩を抱き、
靄の中を進む。
だが、
数歩進んだところで、
アリヤの足が止まった。
地面に落ちた影が、
彼女の影と重ならなかった。
影が、
わずかに遅れて動いた。
アルダシールは息を呑んだ。
「……アリヤ……?」
アリヤは震える声で言った。
「……影が……
私の“形”を真似してる……
でも……
完全には奪えてない……
まだ……
私の中に……
“別の光”が残ってる……」
銀華のことだった。
アルダシールはアリヤの手を握った。
「その光を失うな。
お前自身のものだ」
アリヤは目を閉じた。
「……南へ……
もっと温かい場所へ……
そこなら……
私の形が……
壊れずに済む……」
その言葉は、
アリヤの声と銀華の声が重なっていた。
アルダシールは頷いた。
「行こう。
南へ」
その瞬間、
背後で“音”がした。
水路の出口ではない。
宮殿の壁でもない。
地面の下から、
何かが這い上がる音だった。
アリヤが息を呑んだ。
「……影影じゃない……
もっと……
深い……
“影の根”……」
地面の裂け目から、
黒い糸のようなものが伸びた。
影影ではない。
もっと原始的で、
もっと冷たい。
影の主が、
宮殿の外へ“根”を伸ばし始めている。
アルダシールはアリヤを抱き寄せた。
「走るぞ」
二人は靄の中へ駆け出した。
だが、
靄の中の長安は、
いつもの街ではなかった。
道が曲がっている。
建物の影が伸びている。
人の気配が消えている。
世界が、
影の主の“裏側”に引きずられ始めていた。
アリヤの呼吸が荒くなる。
「……影が……
私の中に……
入り込もうとしてる……
でも……
銀華が……
まだ……
押し返してる……」
アルダシールは彼女の背を支えた。
「銀華はお前の一部だ。
影の主のものじゃない」
アリヤの瞳が揺れた。
「……でも……
このままじゃ……
私……
九尾の“影”になる……」
アルダシールは言った。
「ならせない。
必ず守る」
その言葉に、
アリヤの瞳の奥で銀華の光が微かに揺れた。
靄が揺れる。
影の根が迫る。
長安の外の世界が、
ゆっくりと“裏返り始めていた”。




