第2話 夜に怯える村
ノクスヴェイルの夜は、王都の夜とはまるで違っていた。
王都の夜には、光がある。
大通りには街灯が並び、橋には灯篭がともり、酒場の窓からは笑い声と明かりが漏れる。路地裏でさえ、俺が毎晩調整していた小灯が、最低限の安全を守っていた。
けれど、この村の夜は違う。
暗い。
ただ暗いのではない。
まるで、闇そのものが家々の壁に爪を立て、窓の隙間から中へ入ろうとしているような暗さだった。
「……みんな、外に出ないんですね」
俺がそう呟くと、村長代理のセラは当然のことのように頷いた。
「日が沈んだあとは、出ない。どうしても出る時は、三人以上で動く。それでも帰ってこないことがある」
「魔物ですか」
「魔物もいる。でも、それだけじゃない」
セラは村の通りを見回した。
家々の扉には、板が打ちつけられているものが多い。
窓には厚い布。
入口には魔除けらしい黒い紐。
道の端には、壊れたランプがいくつか立っていた。
どれも長く使われていない。
いや、使えなくなったのだろう。
灯具の芯は黒く腐り、硝子は曇り、支柱の根元には黒い苔のようなものが絡みついていた。
「夜霧よ」
セラが低く言った。
「黒森から出る夜霧が、村に入り込む。触れれば体が冷える。吸い込めば悪夢を見る。長く浴びれば、気力を削られて寝込む」
「だから、窓も扉も閉め切っているんですね」
「そう。だけど、完全には防げない」
セラの声に、かすかな疲れが滲んだ。
村長代理。
若く見えるが、この村の責任を背負っている顔だった。
俺と同じくらいか、少し下だろうか。
栗色の髪は簡単に束ねられ、服も飾り気がない。腰に差した短剣には、何度も研ぎ直した跡があった。
貴族令嬢のような華やかさはない。
けれど、誰かの前に立って守る人間の強さがある。
「ニナは?」
俺は馬車から降りた少女を見た。
ニナは老婆に手を引かれ、眠そうに目をこすっている。
つい先ほどまで悪夢に苦しんでいたとは思えないほど、表情は穏やかだった。
「一度、家に帰すわ。おばあちゃん、お願い」
「ああ。セラちゃん、この人は……」
老婆が不安げに俺を見る。
セラは少し迷ってから答えた。
「まだ分からない。でも、ニナを助けてくれたのは確かよ」
「そうかい」
老婆は俺に深く頭を下げた。
「灯火師さん。ありがとうね」
「いえ、俺は……」
「ニナが笑ったの、久しぶりだったんだ」
それだけ言うと、老婆はニナを連れて小さな家へ向かった。
ニナは何度もこちらを振り返り、最後に小さく手を振った。
俺も軽く手を上げる。
その瞬間、胸の奥にじんわりと温かいものが広がった。
王都でどれだけ街灯を直しても、誰かに直接礼を言われることはほとんどなかった。
もちろん、それでよかった。
灯りというのは、あって当然のものだ。
誰も意識しないくらいが、一番いい。
けれど。
こうして誰かの顔が少し明るくなるのを見ると、思っていたよりずっと、胸にくる。
「……あなた、本当に王都から追放されたの?」
セラが改めて俺に聞いた。
「はい」
「聖灯師なのに?」
「聖灯師ではありません。灯火師です」
「違うの?」
「王都では、大聖灯や結界を扱う上級職を聖灯師と呼びます。俺みたいに街灯や灯具を調整する人間は、灯火師です」
「それで、外れスキル?」
「【小さな灯】。手のひらほどの灯りをともすだけだと、王都では言われていました」
「言われていました、ね」
セラは鋭い。
俺が言葉を選んだことに、すぐ気づいたようだった。
「さっき、影狼はあなたの灯りに近づけなかった。ニナの悪夢も消えた。手のひらほどの灯りだけで、そんなことができるの?」
「俺にも分かりません」
正直に答えた。
「王都では、街灯網の安定に使っていました。魔物を直接退けるために使ったことはありません」
「じゃあ、なぜ分かったの?」
「分かったというより……消せなかったんです」
俺はランタンの中の淡い光を見た。
「馬車の中に、ニナがいた。黒い靄みたいなものが肩にまとわりついていて、俺の灯りで少し薄くなった。だから、消したらだめだと思いました」
「黒い靄が見えたの?」
「はい。うっすらですが」
セラの表情が変わった。
警戒。
驚き。
それから、隠しきれない期待。
「……村の中を見てほしい」
「今からですか?」
「夜だからこそ」
セラはそう言って、暗い通りの奥へ目を向けた。
「この村がどうなっているのか、あなたなら分かるかもしれない」
◇
ノクスヴェイルは、小さな村だった。
家は三十軒ほど。
中央に広場。
広場の隅には枯れかけた井戸。
北側に門があり、その先が黒森。
南側には畑。
東に小さな墓地。
西に、閉じられた宿屋らしき建物。
広場の中央には、大きな灯柱があった。
かつては村の中心を照らしていたのだろう。
だが、今は完全に消えている。
支柱はひび割れ、硝子は片側が割れ、内部の魔石は黒く濁っていた。
「昔は、この広場だけは夜でも明るかったらしいわ」
セラが言った。
「私が小さい頃には、もう半分くらいしか点かなかった。父が村長だった頃に何度も修理しようとしたけど、王都の灯具師はこんな辺境まで来てくれなかった」
「……この魔石、完全に死んでいるわけじゃないですね」
「え?」
俺は灯柱の根元にしゃがみ、工具箱を開けた。
小さな金属棒と磨き布を取り出し、魔石の周囲に絡みついた黒い苔を削る。
嫌な感触だった。
ただの苔ではない。
乾いているのに、触れると湿った冷気が指先にまとわりつく。
「夜霧が固まったものだと思います。灯具の中に入り込んで、魔力の流れを詰まらせている」
「直せる?」
「今すぐ完全に直すのは無理です。部品も足りない。ただ……少しだけなら」
俺は携帯ランタンを灯柱の内部に近づけた。
小さな灯りを、魔石の表面へ移すように意識する。
王都で何千回もやってきた作業だ。
火を灯すのではない。
眠っている灯具に、灯りの道筋を思い出させる。
「【小さな灯】」
淡い金色の光が、魔石のひびに染み込んだ。
次の瞬間。
ぽっ。
灯柱の上部に、小さな光がともった。
「……点いた」
セラが呆然と呟く。
本当に小さな光だった。
広場全体を照らすには足りない。
けれど、確かに灯りだ。
何年も暗かったであろう広場の中心に、もう一度、光が戻った。
閉ざされた家々の中から、ざわめきが起きる。
「広場の灯りが……」
「点いたのか?」
「でも、夜に外へ出たら……」
戸の隙間から、村人たちがこちらを覗いている。
誰も出てこない。
出たくても出られない。
その気持ちは、村の空気を見れば分かった。
ここでは、夜はただ暗い時間ではない。
夜は敵なのだ。
「すごい」
セラが、ぽつりと言った。
「本当に、点けられるんだ」
「まだ応急処置です。灯りも弱い。これだけでは、魔物除けにはなりません」
「それでも、何年ぶりか分からないわ。広場に灯りが戻ったの」
その時だった。
広場の端の家から、短い悲鳴が上がった。
「いやあああっ!」
セラが弾かれたように走り出す。
「ロッテさんの家!」
俺も工具箱を掴んで後を追った。
広場の端にある小さな家。
扉の隙間から、黒い霧が漏れている。
中から女性の泣き声と、子どもの咳き込む声が聞こえた。
「開けて! セラよ!」
セラが扉を叩く。
少しして、内側から震える声がした。
「だめ、開けたら霧が……!」
「今、灯火師がいる!」
「灯火師……?」
「ニナを助けた人よ!」
わずかな沈黙。
それから、閂が外れる音がした。
扉が細く開いた瞬間、冷たい黒霧が足元から流れ出した。
俺は思わず息を止める。
家の中は、ひどい状態だった。
部屋の隅に黒い霧が溜まり、壁に吊るされた小さなランプは完全に消えている。
ベッドの上では、幼い男の子が毛布に包まって震えていた。
そのそばで、痩せた女性が子どもの手を握っている。
顔色は青白い。
疲れ切った目をしていた。
「ロッテさん、カイは?」
「熱が……夜霧が入ってから、急に……」
セラが男の子の額に触れ、顔を強張らせた。
俺は部屋を見回した。
霧の流れは、窓からではない。
床下からだ。
古い家の板の隙間を通って、黒森の夜霧が染み込んでいる。
そして、部屋のランプに絡みつき、内側から灯りを殺している。
「この家、灯具はいくつありますか?」
「え……?」
女性——ロッテさんが戸惑いながら答える。
「そこの壁に一つ。寝室に一つ。あとは、亡くなった夫が使っていた古いランタンが棚に……でも、どれも点かなくて」
「見せてください」
ロッテさんは震える手で、棚の奥から古びたランタンを取り出した。
真鍮製。
かなり古いが、作りは悪くない。
むしろ、王都の量産品よりずっと丁寧だ。
ただし、芯が固まり、内部に黒い粉が溜まっている。
「旦那さんは?」
聞いてから、しまったと思った。
ロッテさんの表情が曇る。
「……二年前、夜に宿のお客さんを迎えに行って、影狼に」
「すみません」
「いいの。もう、ずっと前のことだから」
ずっと前。
そう言いながら、彼女の声は今にも崩れそうだった。
この家には、灯りが足りない。
ただ物理的に暗いだけではない。
帰ってこなかった人を待つ灯りが、消えたままなのだ。
俺はランタンを受け取った。
「使わせてください」
「使うって……それ、もう壊れてるわ」
「壊れているのは、灯りの通り道です。道を作り直せば、まだ点きます」
工具箱を開き、内部の黒い粉を取り除く。
芯を削り、油をほんの少しだけ垂らす。
本当なら工房で丁寧にやるべき作業だ。
でも、今は時間がない。
カイという男の子の震えが強くなっている。
黒霧が、ベッドの脚へ絡みつき始めていた。
「セラさん、窓を少しだけ開けてください」
「夜霧が入るわ」
「出口を作ります。入り口を塞ぐだけだと、家の中に溜まった霧が抜けません」
セラは一瞬迷ったが、すぐに頷いた。
「分かった」
窓が少し開く。
冷たい風が入り、黒霧がざわめく。
俺は古いランタンを床の中央に置いた。
自分の携帯ランタンをその隣に置き、二つの灯具の間に手をかざす。
王都での作業とは違う。
これは街灯の調整ではない。
家一軒を守る灯りだ。
誰かが眠るための灯り。
誰かが帰ってくるのを待つ灯り。
この家の窓に、もう一度ともるべき灯り。
「【小さな灯】」
俺のランタンから、淡い光がこぼれた。
それは糸のように伸び、古いランタンの芯へ触れる。
一瞬、黒い粉がぱちりと弾けた。
ロッテさんが息を呑む。
カイの咳が止まる。
そして。
古いランタンに、小さな金色の火がともった。
ただし、それは普通の火ではなかった。
床を這っていた黒霧が、まるで嫌がるように後退する。
部屋の隅に溜まっていた靄が、窓の方へ押し出されていく。
壁のランプにも、かすかな光が戻った。
家の中の空気が、少しずつ温かくなる。
「……あ」
ベッドの上で、カイが薄く目を開けた。
「お母さん……寒くない」
「カイ!」
ロッテさんが息子を抱きしめる。
セラは黙ったまま、俺の横でその光景を見ていた。
俺は床に膝をついたまま、ゆっくり息を吐く。
指先が熱い。
さっき馬車で使った時より、さらに深く力を使った感覚があった。
でも、苦しくはない。
むしろ、胸の奥に小さな灯りが増えたような気がする。
「これは……」
セラがかすれた声で言った。
「ただの明かりじゃない」
「俺にも、そう見えてきました」
認めるしかなかった。
俺の【小さな灯】は、王都で言われていたような、ただの外れスキルではない。
少なくとも、この村の夜に対しては、はっきりと効いている。
ロッテさんが涙を拭いながら、古いランタンを見つめた。
「そのランタン、夫が宿で使っていたものなの」
「宿?」
「ええ。昔は、この村にも小さな宿があったの。黒森を越える旅人や、薬草を買いに来た商人が泊まっていた。でも夜が危なくなって、夫が亡くなって、それから閉めたまま」
ロッテさんは、光るランタンにそっと手を伸ばした。
「もう一度、点くなんて思わなかった」
「大事に作られた灯具です。きっと、ずっと点きたがっていたんだと思います」
俺がそう言うと、ロッテさんは泣きながら笑った。
「変なことを言う灯火師さんね」
「よく言われます」
王都では、馬鹿にする意味で。
でも今は、不思議と嫌な気分ではなかった。
家の外から、人々のざわめきが聞こえる。
扉の隙間から漏れる灯りを見て、近所の村人たちが集まってきているのだ。
「ロッテの家が……明るい」
「夜霧が消えてるぞ」
「本当に、あの人が?」
「王都の灯火師らしい」
「でも、追放されたって……」
戸惑いと期待が混ざった声。
俺はロッテさんの家を出た。
外に出ると、村人たちが数歩下がる。
彼らの顔には、まだ警戒があった。
当然だ。
突然現れた追放者を、すぐに信用できるはずがない。
けれど、その目の奥には、ほんの少しだけ光が宿っていた。
セラが俺の隣に立つ。
「見たでしょう」
彼女は村人たちに向かって言った。
「この人の灯りは、夜霧を退けた。影狼を退けて、ニナの悪夢を消し、ロッテさんの家を守った」
村人たちは黙っている。
その沈黙の中で、広場の灯柱がぽつりと光っている。
ロッテさんの家の窓にも、小さな灯りがともっている。
暗い村に、たった二つの明かり。
それだけなのに、さっきより息がしやすい。
「ルカ」
セラが俺の名前を呼んだ。
いつの間にか、俺は名乗っていたらしい。
いや、ロッテさんの家で作業中に聞かれ、答えたのだった。
「あなたに頼みたいことがある」
「はい」
「この村に、しばらく残ってほしい」
ざわり、と村人たちが揺れた。
セラは続ける。
「もちろん、ただでとは言わない。村は貧しいけれど、寝る場所と食事は用意する。報酬も、今は多く出せないけれど、できる限り払う」
「俺は……追放者ですよ」
「知っているわ」
「王都では、無能だと」
「王都がどう言ったかは知らない」
セラはきっぱりと言った。
「でも、この村では違う。あなたの灯りで、ニナは眠れた。カイは助かった。ロッテさんの家に灯りが戻った」
彼女は俺をまっすぐ見た。
「ここでは、あなたが必要よ」
その一言に、胸が詰まった。
必要。
王都でどれだけ働いても、誰も言わなかった言葉。
俺が守っているつもりだった灯りは、そこでは見えないものだった。
でも、この村では違う。
小さな灯りがともれば、誰かが安心して息をする。
誰かが眠れる。
誰かが泣きながら笑う。
「……俺でよければ」
声が少し震えた。
「しばらく、この村の灯りを見させてください」
セラの表情が、ほんの少しだけ柔らかくなった。
「ありがとう、ルカ」
その時だった。
広場の灯柱の下で、何かが淡く光った。
俺は反射的にそちらを見る。
さっきまでは黒い苔に覆われていた石畳の一部。
そこに、細い金色の線が浮かび上がっている。
紋章だ。
円と、灯火と、網のように広がる線。
王都の聖灯局で見たどの刻印とも違う。
けれど、俺の【小さな灯】に反応している。
「セラさん」
「何?」
「この広場の下に、何かあります」
「え?」
俺は灯柱の根元へ近づき、膝をついた。
小さな灯りを近づける。
すると、石畳の下から、さらにいくつもの線が浮かび上がった。
それは広場だけではない。
北門へ。
井戸へ。
ロッテさんの家へ。
そして、村の奥へ。
まるで、この村全体に眠っていた古い灯りの道が、目を覚まそうとしているようだった。
セラが息を呑む。
「これは……村の古い伝承に出てくる、灯路?」
「灯路?」
「昔、この村は夜でも明るかったって。黒森の魔物も近づけなかったって。でも、ただの昔話だと思っていた」
俺のランタンの光が、静かに揺れた。
足元の紋章も、それに応えるように淡く輝く。
王都で外れと呼ばれた小さな灯り。
その光に、呪われた辺境の村が反応している。
俺は知らず、息を呑んでいた。
この村には、まだ消えていない灯りがある。
ただ、誰かがもう一度ともすのを待っていただけだ。
その時。
北門の方角から、低い遠吠えが聞こえた。
村人たちが一斉に青ざめる。
セラが短剣に手をかけた。
「影狼……また?」
遠吠えは一つではない。
二つ、三つ。
黒森の奥で、何かが集まっている。
俺はランタンを握りしめた。
足元の灯路が、北門へ向かってかすかに光っている。
まるで、そこを照らせと言っているように。
セラが俺を見た。
「ルカ。あなたの灯りで、北門まで行ける?」
俺は小さく頷いた。
怖くないわけではない。
戦う力なんて、今もない。
けれど。
この村の夜に、もう一つ灯りを増やせるのなら。
「行きます」
俺はランタンを掲げた。
暗い北門の向こうで、赤い目がいくつも光っていた。




