第3話 初めて眠れた子
北門の向こうで、赤い目がいくつも光っていた。
闇の中に沈んだ黒森。
その入口に、影狼の群れがいる。
村の中では、誰かが息を呑む音がした。
泣き出しそうな子どもの声。
扉を閉める音。
祈るように胸の前で手を組む老人。
たった数刻前まで、俺は王都を追放されたばかりの無職だった。
聖灯局の同僚たちに笑われ、外れスキルだと決めつけられ、誰にも必要とされずに追い出された。
その俺が今、辺境の村の北門へ向かって歩いている。
手にあるのは、古びた真鍮のランタンだけ。
剣はない。
防具もない。
魔物を倒す魔法もない。
あるのは、小さな灯りだけだった。
「ルカ、無理はしないで」
隣を歩くセラが、短剣の柄に手をかけながら言った。
「影狼は一頭でも危険よ。群れになると、村の男たちでも止められない」
「分かっています」
「分かってない顔をしてる」
「よく言われます」
「誰に?」
「主に、王都の上司に」
セラがこんな状況なのに、わずかに目を丸くした。
「あなた、意外と冗談を言うのね」
「冗談にしないと、少し怖いので」
「……正直なのはいいことね」
セラは短く息を吐いた。
俺も笑おうとしたが、喉がうまく動かなかった。
怖い。
当たり前だ。
影狼は人を襲う魔物だ。
灯火師は、魔物と正面から戦う職業ではない。
俺が王都でやってきたのは、灯具の点検、魔石の調整、街灯網の保守。
魔物が来ないように備える仕事であって、魔物が来たあとに立ち向かう仕事ではなかった。
でも、足元の石畳に浮かび上がった金色の線は、北門へ向かって伸びている。
古い灯路。
この村に眠っていた、忘れられた灯りの道。
それが俺のランタンに反応している。
まるで、行け、と言っているように。
「村長代理!」
北門の見張り台から、男の声が飛んだ。
「影狼が七、いや八! 森の奥にもまだいます!」
「門は?」
「閉じています! でも、外側の杭が持ちません!」
見ると、北門の外側に置かれた木杭の柵が、影狼の爪で揺れていた。
太い丸太で作られた門ではあるが、古い。
補修の跡も多い。
影狼が体当たりするたびに、門板がぎしぎしと嫌な音を立てる。
村人たちは北門から距離を取り、家の陰に隠れていた。
誰も責められない。
ここでは夜が敵なのだ。
闇が深くなるたび、何かを奪っていく。
人の眠り。
暮らし。
家族。
未来。
俺はランタンを握る手に力を込めた。
「セラさん。あの門に、昔の灯具はありますか」
「あるわ。上に古い門灯が二つ。でも、十年以上前から点かない」
「場所は?」
「門柱の左右。だけど、片方は硝子が割れている」
「片方だけでもいいです」
俺は北門へ近づいた。
影狼たちが、門の隙間からこちらを見る。
赤い目。
黒い毛並み。
煙のように揺れる輪郭。
普通の獣ではない。
夜の魔力で形を保っている魔物だ。
王都の街灯網の外側で見たことはある。
だが、こんなに近くで見るのは初めてだった。
「グルルル……」
低い唸り声。
それを聞いただけで、背筋が冷える。
俺は門柱の根元に膝をついた。
足元には、先ほど広場で見たものと同じ金色の紋が、うっすらと浮かんでいる。
円。
灯火。
そこから伸びる細い線。
この線は、門柱の中へ続いていた。
「やっぱり、ここにも灯路がある」
「直せる?」
セラが聞く。
「直すというより、起こします」
「起こす?」
「灯具は、完全に死んでいるわけじゃない。長く使われず、夜霧に塞がれて眠っているだけです」
俺は門柱に取り付けられた古い門灯を見上げた。
左の灯具は硝子が割れている。
右の灯具は形こそ残っているが、魔石が黒く濁っていた。
普通なら交換が必要だ。
王都の規定なら、即廃棄。
だが、俺には分かる。
この灯具は、まだ灯りを覚えている。
ここを通る人を守っていた記憶。
夜道から帰る村人を迎えていた記憶。
森から来る影を見張っていた記憶。
灯具は道具だ。
けれど、長く人の暮らしに寄り添った道具には、ただの部品以上のものが宿る。
そんなことを王都で言えば、また笑われただろう。
でも今は、笑う人はいなかった。
村人たちは息を潜めて、俺を見ている。
「【小さな灯】」
俺はランタンの光を、門柱の根元に近づけた。
金色の線が、淡く強まる。
まるで乾いた水路に水が流れ込むように、光が石畳を伝い、門柱を上っていく。
黒い苔がじゅっと音を立てて縮んだ。
門の外で、影狼が一斉に唸る。
「ルカ!」
セラが叫ぶ。
次の瞬間、一頭の影狼が門の隙間から前脚を差し込んだ。
黒い爪が、俺の肩を狙って伸びる。
避ける暇はなかった。
けれど、その爪が俺に触れる直前。
右の門灯が、ぽっとともった。
小さな光。
王都の聖光魔法のような眩しさはない。
貴族街の魔導灯のような豪華さもない。
でも、温かい。
帰る家の窓にともるような、優しい金色。
「ギャウッ!」
影狼の前脚が、光に触れた瞬間に弾かれた。
黒い爪から煙が上がり、魔物は悲鳴を上げて後退する。
続けて、左の壊れた門灯にも、小さな火が宿った。
割れた硝子の隙間から、光が漏れる。
左右の門灯がつながる。
その間に、薄い金色の膜のようなものが広がった。
「……結界?」
セラが呟く。
「いえ、たぶん」
俺は額の汗を拭った。
「門灯が、本来の役目を思い出したんです」
「役目?」
「ここから先は、村の中だって」
影狼たちは門の前をうろついていた。
だが、もう門に体当たりしない。
唸りながらも、光の膜に近づけずにいる。
村人たちから、ざわめきが起きた。
「門灯が点いた……」
「十年以上、消えてたのに」
「影狼が入ってこない」
「本当に、止まってる……」
俺はその声を聞きながら、門灯の光を確認した。
弱い。
まだ弱い。
これだけでは、長くは持たない。
門灯の内部は傷んでいるし、灯路も詰まっている。
今夜をしのげても、明日には調整が必要だ。
それでも。
今、この瞬間。
北門は守られている。
「見張りの方」
俺は門の上にいる男へ声をかけた。
「この灯りが消えそうになったら、すぐ知らせてください。俺のランタンから光を足します」
「わ、分かった!」
「門の左右に人を立てすぎないでください。影狼は人の恐怖に反応します。できれば、落ち着いて」
「落ち着けって言われてもな……!」
見張りの男は引きつった笑いを浮かべた。
それでも、さっきより声に力が戻っている。
セラが北門の前に立ち、村人たちへ振り返った。
「今夜は全員、家へ戻って。窓と扉を閉めて、灯りがある家は小さくとも消さないで。広場とロッテさんの家、北門の灯りを確認しながら夜明けまで見張ります」
「村長代理、この灯りは本当に大丈夫なのか?」
年配の男が不安そうに聞いた。
セラは一瞬だけ俺を見た。
俺は頷く。
「絶対とは言えません。でも、影狼は近づけなくなっています。夜霧も、灯りの内側には入りにくいはずです」
「はず、か」
「すみません。俺も、まだこの力を完全には分かっていません」
正直に言った。
ここで大丈夫だと言い切るのは簡単だ。
でも、俺はこの村に来たばかりで、灯路の状態も、魔物の習性も、夜霧の濃さも知らない。
無責任な安心は、灯りではない。
「ただ」
俺はランタンを持ち直した。
「今夜、消えないように見張ります」
年配の男は、しばらく俺を見た。
それから、小さく頷いた。
「……頼む。うちの孫が、夜になると泣くんだ」
「はい」
「俺らじゃ、どうにもできなかった」
「できるところから、やります」
それ以上、格好いいことは言えなかった。
でも、その言葉で十分だったのかもしれない。
村人たちは少しずつ家へ戻っていった。
北門の外では、影狼たちがまだうろついている。
けれど、門灯の光は静かに闇を押し返していた。
◇
その夜、俺はほとんど眠らなかった。
セラと交代で北門、広場、ロッテさんの家を回った。
灯りの状態を見て、黒い苔を削り、魔石の流れを整える。
王都でやっていた仕事と、作業そのものは大きく変わらない。
ただ、意味が違った。
王都では、灯りはあって当然だった。
消えれば怒られる。
点いていても、誰も見ない。
けれど、この村では違う。
広場の灯りが揺れるたび、家の窓から誰かが心配そうに覗く。
北門の灯りが強まると、見張りの男がほっと息を吐く。
ロッテさんの家のランタンが安定すると、彼女は眠る息子の額を撫でて泣きそうに笑う。
灯りが、人の息とつながっている。
そのことが、痛いほど分かった。
「少し休んだ方がいい」
夜明け前、セラが広場で俺に温かい薬草茶を差し出した。
「ありがとうございます」
両手で受け取る。
湯気の向こうに、セラの疲れた顔が見えた。
彼女も一晩中動き続けていた。
村長代理という立場は、俺が思っていたよりずっと重い。
「セラさんこそ」
「私は慣れてる」
「慣れていい夜じゃないと思います」
思わず言うと、セラは少しだけ目を伏せた。
「……そうね」
広場の灯柱は、小さく光り続けている。
強い光ではない。
それでも、夜明け前の一番暗い時間に、そこだけは温かかった。
「父が元気だった頃、この村にはもっと灯りがあったらしいの」
セラがぽつりと話し始めた。
「夜市もあった。宿も開いていた。黒森の薬草を買いに商人が来て、旅人も泊まって、子どもたちは日が暮れてからも広場で遊んでいたって」
「今は、夜市も宿も?」
「全部なくなった。黒森の夜霧が濃くなって、魔物が増えて、灯具が次々消えた。王都に助けを求めても、辺境の小さな村に回す人員はないって」
セラの声は淡々としていた。
怒りを通り越して、諦めに近い響きだった。
「父は自分で灯具を直そうとして、夜霧を浴びすぎた。今はほとんど起き上がれない」
「村長さんが……」
「だから私が代理。でも、私には灯りの知識がない。剣で追い払える魔物には限界がある。夜霧は斬れない」
セラは薬草茶の入った木杯を見つめる。
「この村は、少しずつ夜に削られてきたの」
俺は言葉を探した。
大丈夫です、とは言えない。
俺一人で全部解決できます、とも言えない。
でも。
「灯りは、残っています」
俺は広場の灯柱を見た。
「完全に消えたわけじゃない。この村の下には、古い灯路が眠っています。北門も、ロッテさんの家も、少し手を入れれば応えてくれました」
「それは、あなたなら直せるということ?」
「直すというより、思い出させる感じです」
「本当に変な言い方をするのね」
「すみません」
「責めてないわ」
セラは少し笑った。
夜明け前の薄明かりの中で、その笑顔はひどく疲れていて、でも綺麗だった。
「ルカ。改めてお願いするわ」
彼女は俺に向き直る。
「この村の灯りを、取り戻す手伝いをしてほしい」
「はい」
今度は迷わなかった。
「俺でよければ」
「あなたがいい」
即答だった。
その言葉に、胸の奥が熱くなる。
王都で失った居場所が、ここにあるとはまだ言えない。
でも、少なくとも。
ここには俺の灯りを必要としてくれる人がいる。
それだけで、足元に道ができた気がした。
◇
夜が明けた。
黒森の方角から差し込む朝日は、まだ弱い。
けれど、村の空気は昨夜とは違っていた。
村人たちが恐る恐る家の外へ出てくる。
広場の灯柱を見上げる者。
北門の門灯を確認する者。
ロッテさんの家の窓から漏れる灯りを見て、胸を押さえる者。
たった一晩で村が救われたわけではない。
夜霧はまだある。
影狼も森にいる。
壊れた灯具は山ほど残っている。
けれど、昨日まで完全な闇だった場所に、小さな光が三つともった。
広場。
北門。
ロッテさんの家。
それだけで、村人たちの顔が少し変わっていた。
「ルカ兄ちゃん!」
元気な声がして、俺は振り向いた。
ニナが駆けてくる。
昨日、悪夢にうなされていた少女とは思えないほど、足取りが軽い。
後ろから老婆が慌てて追いかけていた。
「ニナ、走ったら転ぶよ!」
「だって、朝だもん!」
ニナは俺の前でぴたりと止まり、満面の笑みを浮かべた。
「わたし、眠れた!」
「……本当に?」
「うん! 朝まで! 怖い狼も、黒い手も、出なかった!」
その言葉に、周囲の村人たちが静まり返った。
ニナの悪夢は、村ではよく知られたものだったのだろう。
老婆が涙ぐみながら頷く。
「この子が朝まで眠ったのは、何ヶ月ぶりか分からないよ」
ニナは両手を広げて、俺のランタンを覗き込んだ。
「ルカ兄ちゃんの灯りが、夢の中にもあったの」
「夢の中に?」
「うん。小さい灯りがね、ぽうって。そしたら、黒い狼が逃げていったの」
俺はランタンを見る。
中の光は、今はほとんど消えている。
けれど、完全には消えていない。
芯の奥に、朝になっても消えない小さな金色が残っていた。
「ニナだけじゃない」
別の家から、若い母親が出てきた。
「うちの子も、昨日は泣かなかった」
「うちもだ」
「夜中に起きなかったの、久しぶりで……」
村人たちが口々に言う。
俺は驚いて、セラを見る。
セラも同じように驚いていた。
「広場の灯りが、周囲の家まで届いたのかもしれません」
俺はゆっくり考えながら言った。
「まだ弱いけど、夜霧を少し薄めた。悪夢の呪いも、完全ではなくても和らげたんだと思います」
「つまり」
セラの声が震えた。
「村中に灯りを戻せば、子どもたちは眠れるようになるの?」
「可能性はあります」
断言はできない。
でも、ニナの笑顔を見れば、希望はあった。
セラは顔を上げ、村を見渡した。
壊れた灯具。
閉ざされた宿。
枯れかけた井戸。
夜を恐れて暮らしてきた人々。
そして、朝の光の下で少しだけ表情を明るくした子どもたち。
「ルカ」
「はい」
「今日から、あなたの仕事場を用意するわ。古い倉庫がある。工具も、壊れた灯具も全部そこに集める」
「助かります」
「食事はロッテさんのところで。宿はまだ閉めているけど、部屋は使えるはずよ」
ロッテさんがすぐに頷いた。
「もちろん。灯火師さんなら大歓迎よ。カイを助けてもらったんだから」
「ありがとうございます」
「それと」
ロッテさんは少し照れたように笑った。
「もし、あの宿の灯りも戻せるなら……また、お客さんを迎えられるかしら」
その言葉に、村人たちがざわめいた。
宿。
夜に泊まれる場所。
旅人が来る場所。
商人が戻る場所。
それは、村がもう一度外の世界とつながるということだ。
俺はロッテさんの家の古いランタンを思い出した。
彼女の夫が使っていた、丁寧に作られた灯具。
あれが点いたのなら、宿の灯りもきっと。
「見せてください」
俺は答えた。
「直せるかどうか、確認します」
その瞬間、ニナが俺の袖を引いた。
「ルカ兄ちゃん」
「ん?」
「もう、どこにも行かない?」
小さな声だった。
ただの子どもの問いかけ。
でも、俺にはひどく重く響いた。
王都から追放された俺に、行く場所なんてない。
ここに残る資格があるのかも分からない。
けれど、ニナの目は真剣だった。
昨日まで悪夢に怯えていた子が、俺の返事を待っている。
俺は膝をつき、ニナと目線を合わせた。
「しばらく、この村にいるよ」
「しばらく?」
「……うん。まずは、村の灯りを直すまで」
「全部?」
「できるだけ全部」
ニナはぱっと笑った。
「じゃあ、いっぱいあるよ!」
「それは大変だ」
「でも、ルカ兄ちゃんならできるよ。だって、灯りの人だもん」
灯りの人。
王都では、ろうそく係と笑われた。
無能と呼ばれた。
外れスキルだと追放された。
でも、この子は俺を灯りの人と呼んだ。
胸の奥に、また小さな火がともる。
その時だった。
広場の隅から、誰かの悲鳴が上がった。
「おい、井戸が!」
俺たちは一斉に振り向いた。
枯れかけた井戸の周りに、黒い霧が集まっている。
朝だというのに。
夜は明けたはずなのに。
井戸の底から、冷たい闇が滲み出していた。
セラの顔が強張る。
「あそこは、村の水源よ」
井戸の縁に、昨夜見たものとは違う黒い紋が浮かび上がっていく。
まるで、村に灯りが戻るのを嫌がる何かが、目を覚ましたようだった。
俺はランタンを握った。
まだ休むには早いらしい。
ノクスヴェイルの夜は、思っていたより深い。
けれど。
この村には、もう灯りがある。
「セラさん」
「ええ」
彼女は短剣を抜いた。
俺は小さな灯りをともす。
金色の光が、朝の広場に揺れた。
「次は、井戸を見ましょう」
そう言って、俺は黒い霧の立ちのぼる井戸へ歩き出した。




