第九章:北里研究所の創設
一
大正三年(1914年)十一月、官立伝染病研究所を辞した北里柴三郎と門弟たちには、戻るべき研究室も、実験に使う顕微鏡すらも残されていなかった。東京帝国大学の学閥や文部省の官僚たちは、「牙を抜かれた北里など、もはや恐るるに足らず」と、勝利の美酒に酔いしれていた。
しかし、柴三郎の辞職からわずか数日後、東京・白金の地にひとりの男が立っていた。
「先生、土地の手配と、最低限の木材の調達の目処が立ちました」
息を切らせて駆け寄ってきたのは、門弟の秦佐八郎であった。柴三郎は、まだ何もかもが足りない荒地を見つめ、不敵な笑みを浮かべた。
「官僚どもは、ハコさえ奪えば我々が干からびると思ったのだろう。浅はかなことだ。学問とは、国家にお膳立てしてもらうものではない。我々の頭脳と、民を救うという大義がある限り、ここが世界の最前線だ」
柴三郎は、私財をすべて投げ打ち、さらにかつて彼を支えた福澤諭吉の門下生たちや、彼の志に共鳴する民間実業家たちから資金を募った。国家の補助金に一切頼らない、完全なる民間の研究機関「北里研究所」の建設が、驚異的な速度で始まったのである。
二
大正四年(1915年)、まだペンキの匂いが残る木造の新研究所で、柴三郎は再び顕微鏡の前に座っていた。
資金も機材も、官立時代とは比べものにならないほど困窮していた。冬になれば暖房すら満足に回らず、研究員たちはかじかむ手で試験管を握った。しかし、研究所の空気は、官僚たちの監視下にあった頃よりも遥かに自由で、熱気に満ちていた。
「おい、志賀、秦。寒さで菌の培養が遅れるなら、懐に入れて俺たちの体温で温めろ」
柴三郎の豪快な大号令に、若き研究者たちは笑い合い、夜を徹して実験に没頭した。
国家という巨大な後ろ盾を失ったことで、柴三郎の「持続の執念」はかえって研ぎ澄まされていた。彼は、研究の傍ら、民間機関として自立するために、治療用血清やワクチンの製造・販売を本格化させた。
「質の高いワクチンを安価で大量に供給する。それが、国に頼らず我々が生き残り、同時に最も早く民の命を救う道だ」
この実学の精神により、北里研究所はまたたく間に日本中の医療現場から絶大な信頼を勝ち取り、財政的な自立をも果たしていく。国家の嫌がらせを、自らの実力で完全に粉砕した瞬間であった。
三
第一次世界大戦の勃発により、ヨーロッパからの医薬品の輸入が途絶えた日本において、独自の技術で血清やワクチンを供給し続けた北里研究所の存在は、まさに国家の救世主となった。皮肉にも、柴三郎を追い出した政府は、彼らの造る医薬品に頼らざるを得なくなったのである。
地理的に東洋の孤島であった日本が、欧米の先進国と肩を並べ、独自の医学先進国へと脱皮できたのは、国家の統制ではなく、この白金の野に立った一本の熱き巨木があったからに他ならない。
柴三郎は、己を裏切った国家を恨むことに時間を使わなかった。彼の視線は、常に「いかにして目の前の病苦から民を救うか」、そして「いかにして次の時代を担う知性を育てるか」という、大局的な未来だけを見据えていた。
還暦を過ぎてなお、その圧倒的なバイタリティは衰えるどころか、さらに加速していた。そして大正六年(1917年)、柴三郎のもとに、かつて彼を支え、今は亡き恩師・福澤諭吉の遺志を継ぐ、もう一つの大いなる使命が舞い込んでくる。それは、日本の医学教育の歴史を根底から塗り替える、最後の大勝負の始まりであった。
(最終章へ続く)
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