最終章:後進へ繋ぐ命の使い方
一
大正六年(1917年)、還暦を過ぎてなお北里研究所の先頭に立ち続ける北里柴三郎のもとに、ひとつの重大な要請が持ち込まれた。それは、かつて窮地の彼に手を差し伸べ、鬼籍に入った恩師・福澤諭吉が創立した慶應義塾からの、医学部新設の懇願であった。当時の医学界は依然として東京帝国大学の学閥が支配しており、私立大学が医学部を持つなど不可能とされていた時代である。
柴三郎は、この無謀とも言える挑戦を二つ返事で引き受け、初代医学部長に就任する決断を下した。
「北里先生、なぜまた東大を敵に回すような茨の道を選ばれるのですか。私立の医学部など、官僚どもが総力を挙げて潰しにかかってきます」
髪に白いものが混じり始めた志賀潔は、恩師の身を案じて言った。
「志賀、福澤先生が私に遺してくれた恩義を、私は一刻も忘れたことはない。それに、官立の大学だけが医師を育てる世の中は歪んでいる。野にあって、権威に阿ねらず、ただ民の病苦に寄り添う真の医師を育てる。それこそが、私の最後の、そして最大の命の使い方だ」
柴三郎は、白金の地に集う若き学生たちの姿を見つめ、破顔一笑した。彼は、北里研究所の俊英たちを惜しげもなく慶應の教壇へと送り込み、独自の学風を持つ新たな最高学府を瞬く間に築き上げていった。
二
大正十二年(1923年)九月一日、関東大震災が勃発し、帝都東京は壊滅的な打撃を受けた。無数の負傷者と、その後に懸念される伝染病の恐怖が街を包む中、七十歳となった柴三郎は、誰よりも早く動いた。彼は、かつて激しく対立した内務省や文部省、果ては東大の医師たちをも糾合し、日本医師会の初代会長として、官民の垣根を越えた巨大な救護組織を組織したのである。
「いまは、平時の怨恨や学閥のしがらみを語る時ではない。目の前の民を救うために、日本の医学の全力を一つに集めるのだ」
柴三郎は、かつての政敵たちの前で堂々と頭を下げ、協調の手を差し伸べた。その大局的な視野と、国の未来を憂う不屈の志の前に、東大の重鎮たちも己の小ささを恥じ、互いに手を取り合って国難に立ち向かった。
充分でない医療資源という極限の制約の中で、柴三郎の指揮のもと、徹底した防疫措置が講じられた結果、震災後の東京で大規模な疫病の流行は一切発生しなかった。それは、彼が一生を懸けて磨き上げてきた「衛生の力」が、国家を救った決定的な瞬間であった。
三
昭和六年(1931年)六月十三日、熱き魂を燃やし続けた北里柴三郎は、東京・白金の自宅にて、七十八年の波乱に満ちた生涯に静かに幕を下ろした。奇しくもその日は、かつて彼が香港の死地にて、世界で初めてペスト菌を発見した日と同じ、六月十三日であった。彼の枕元には、最期まで手放さなかった一台の顕微鏡が、静かに朝日に照らされていた。
日本が近代国家へと脱皮する激動の時代、地理的に西洋から遠く離れた島国にあって、彼が下し続けた決断の数々は、すべて「民の命を救う」という一筋の志に貫かれていた。組織のしがらみに縛られず、富国強兵の荒波の中で、人間の情と業を深く理解し、常に次の時代を見据えて歩み続けた不屈の生涯。
柴三郎の葬儀には、国を挙げての数万の民が集まり、かつて彼が命を救った子供たちや、その志を継いだ若き医師たちが、涙を流してその棺を見送った。彼の遺した北里研究所や慶應義塾医学部、そして「予防医学」という揺るぎなき思想は、彼の肉体が滅びた後も、長きにわたり日本の、そして世界の無数の命を救う盾として、永遠に生き続けることとなる。己の志に生きた男の命の使い方は、今もなお、未来を生きる人々の行く手を清々しく照らし出している。
(『不屈魂』全十章・完)
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