第八章:突如たる瓦解、国家の裏切り
一
大正三年(1914年)十一月、日本の医学界のみならず、国家の根幹を揺るがす大激震が突如として走った。第二次大隈重信内閣は、それまで内務省の管轄下で独立した歩みを続けていた官立伝染病研究所を、何の前触れもなく文部省へ移管し、東京帝国大学医学部に統合するという勅令を下したのである。
これは、柴三郎の預かり知らぬところで進められた、文部省の官僚と帝大の学閥による、水面下の周到なる謀略であった。世界的な名声と、膨大な国家予算が動く伝染病研究所を、自らの支配下に収めようとする権力欲という人間の「業」が、牙を剥いた瞬間であった。
「北里先生、これは明らかな裏切りです。先生が二十年にわたり命を懸けて築き上げてきた城を、あいつらは紙切れ一枚で分捕ろうというのです」
所長室に飛び込んできた志賀潔は、怒りに声を震わせ、拳で机を激しく叩いた。
「志賀、落ち着け。官僚どもの狙いは、この研究所の設備や予算だけではない。我々が守り続けてきた『民のための医学』という自由な気風を縛り付け、大学の権威の檻の中に閉じ込めることだ」
柴三郎は、机の上に広げられた移管の通達を静かに見つめていた。彼の胸中には、裏切られた無念と、国家の不条理に対する猛烈な怒りが渦巻いていたが、その眼光はどこまでも冷徹に、事の本質を見抜いていた。
二
政府は、柴三郎の抜群の実績と国民からの絶大な人気を恐れ、「移管後も北里は所長として留任し、破格の待遇を以て迎える」という、一見すれば地位を安泰にする条件を提示して妥協を迫った。しかし、それは柴三郎を組織のしがらみに繋ぎ止め、牙を抜くための罠に過ぎなかった。
充分でない資源しか存在しなかった時代から、福澤諭吉の助けを借りて野から立ち上がり、ようやく国家の盾となる組織を造り上げたというのに、ここで権力に屈すれば、未来の医学の独立は完全に失われる。
「私は、官位や俸給のために顕微鏡を覗いてきたのではない。学問の自由と、民の命を守れぬ組織の長など、何の価値もない」
大正三年(1914年)十一月五日、柴三郎は一切の妥協を拒絶し、内閣に対して所長の辞職願を叩きつけた。それは、国家の最高権力に対し、自らの輝かしい地位や名誉、そして安定した研究環境のすべてを擲って宣戦布告をする、危険極まる覚悟の決断であった。
この柴三郎の毅然たる態度に、門弟たちの魂が激しく共鳴した。志賀潔をはじめ、秦佐八郎など、研究所に籍を置くほぼすべての研究員、技術員、さらには小使にいたるまで、総勢数十名が「北里先生と行動を共にする」として、一斉に辞表を提出したのである。世界に類を見ない、研究機関の全従業員による「総辞職」という前代未聞の事態に、政府と東大は大慌てで動揺したが、柴三郎たちの決意は岩のように固かった。
三
二十世紀初頭の日本は、日露戦争の勝利を経て列強の仲間入りを果たし、官僚制と帝国大学を中心とする権力構造が、強固に固定化されつつある時代であった。地理的に見れば、首都・東京の枢軸で起きたこの激突は、国家の権威がすべてを統制しようとする流れに対し、専門知の独立と民間の誇りが真っ向から異を唱えた、歴史の必然たる精神の闘争であった。柴三郎は、己の城を失うという最大の敗北の中で、人間の「情」と「志」の結合が、国家の権力をも凌駕し得るという大局的な光景を世に示したのである。
築き上げてきた設備も、研究中の菌の株も、すべては国のものであるとして没収され、柴三郎と門弟たちは、文字通り「身一つ」で晩秋の路上へと放り出された。
宿敵たちの冷笑が背後に聞こえる中で、柴三郎は自らを慕ってついてきた若者たちの顔を見回し、朗々たる声で言い放った。
「皆、よくついてきてくれた。我々の城は奪われたが、我々の頭脳と、民を救わんとする志までは奪えん。ハコ(建物)など、また造れば良いのだ。真の学問は、これから野において始まるのだ」
還暦を迎えた老巨匠のその言葉に、絶望に暮れていた門弟たちの目に、再び熱き生命の灯がともった。地位を失い、資源を奪われ、完全なる四面楚歌の中で、柴三郎はすでに、自らの力で新たな時代の礎を築くという、持続の執念に満ちた次なる大決断へと歩みを進めていた。
(第九章へ続く)
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