第七章:集いし門弟たち
一
明治二十九年(1896年)、香港での大業を成し遂げた北里柴三郎の伝染病研究所は、国家の正式な支援を受ける官立の組織へと昇格を果たした。かつて彼を冷遇した東京帝国大学の学閥も、世界的な名声の前には沈黙せざるを得ず、柴三郎の城には、国中から「病魔から民を救わん」と燃える俊英たちが続々と集結してきた。
その中の一人に、のちに赤痢菌を発見することとなる若き医師、志賀潔がいた。志賀は、帝大を卒業したものの、出世栄達の道に背を向け、柴三郎の門を叩いた無口な青年であった。
「志賀、お前はなぜここに subterranean(地下)の如き泥臭い研究を選んだ。帝大に居れば、安泰な出世が約束されていたはずだ」
柴三郎は、夕暮れの実験室で黙々と試験管を洗う志賀に、あえて厳しい口調で問いかけた。
「北里先生、私は書物の中の権威ではなく、先生のように顕微鏡の向こうにある真理を以て、実際に民の命を救いたいのです。そのためなら、いかなる苦労も厭いません」
志賀は真っ直ぐに柴三郎を見返した。柴三郎はその言葉に、かつて熊本の地でマンスフェルトから大義を示された若き日の己の姿を重ね合わせ、胸の奥で深く頷いた。彼は、単なる技術の伝授ではなく、自らの「命の使い方」という魂の根幹を、この若者たちに注ぎ込む決断を下したのである。
二
明治三十年(1897年)、日本全土で「赤痢」が大流行し、数万人もの命が奪われるという未曾有の国難が発生した。柴三郎は、この目に見えぬ強敵との戦いの最前線に、まだ二十代の志賀を抜擢するという大胆な配置を行った。
「志賀、この戦いはお前に任せる。日本中の子供たちが腹を抱えて苦しんでいる。一刻の猶予もない。己の目を信じ、徹底的に突き詰めろ」
充分でない予算と、刻一刻と増え続ける死者という極限の制約の中で、志賀は不眠不休で実験を繰り返したが、原因菌は一向に姿を現さなかった。焦燥と疲労から、志賀の心は折れかけていた。
周囲からは「若い志賀には荷が重すぎる」「帝大の教授に任せるべきだ」という批判の声が渦巻いたが、柴三郎はそれらの雑音をすべて撥ね付けた。
「志賀、人間の犯す最大の誤りは、諦めることだ。失敗の数だけ、真理に近づいている。全責任は私が持つ。お前はただ顕微鏡の向こうの敵だけを見据えよ」
この柴三郎の絶対的な信頼と、危険を一身に背負う覚悟に打たれた志賀は、再び奮起した。
そして同年十二月、志賀はついに世界を震え上がらせていた赤痢菌を発見することに成功する。この快挙は、柴三郎という巨星の存在があったからこそ成し遂げられた、若き意志の勝利であった。
三
明治という時代が日清・日露の激戦を経て、大国としての形を整えていく中で、国内の学術組織もまた、利害と権力を巡る複雑な「業」に塗れつつあった。地理的に極東の要衝となった日本が、世界の科学を牽引するためには、硬直した官僚組織に縛られぬ、自由にして峻烈なる研究の気風を守り抜かねばならなかった。柴三郎が創り上げた伝染病研究所は、まさにその気風を体現する、梁山泊の如き聖地となっていたのである。
柴三郎は、志賀のみならず、ハブの血清療法を確立する秦佐八郎など、多くの優れた門弟たちを我が子のように愛し、時に激しく叱咤し、時に深く包み込んだ。
「北里先生は、ただの学者ではない。我々にとっての精神の拠り所であり、進むべき道を照らす燈台なのだ」
門弟たちは、柴三郎の背中を見ながら、医学の本懐とは何かを身体で覚えていった。
しかし、この伝染病研究所の急速な興隆と、柴三郎を頂点とする強固な結束は、再び帝大と文部省の官僚たちの激しい嫉妬と警戒心を呼び起こすことになる。大局的な視点から、国家の医療制度の全権を握ろうと目論む保守的な勢力は、野に咲くこの巨大な知性の木を根こそぎ引き抜こうと、水面下で冷徹なる謀略を巡らせ始めていた。柴三郎の人生に、最大の嵐が近づいていた。
(第八章へ続く)
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