第六章:香港の黒き死病
一
明治二十七年(1894年)の春、東アジアの海を揺るがす恐るべき急報が東京へ届いた。清国の広東から英領香港へと、中世欧州を全滅の危機に陥れた黒死病――「ペスト」が侵入し、猛烈な勢いで猖獗を極めているという。罹患すれば数日のうちに高熱を発し、皮膚が黒く壊死して絶命するその病魔の前に、香港の街は死体の山と化していた。
日本政府は、この恐るべき病が国内に侵入することを防ぐため、香港へ国費による調査団を派遣することを決定し、その白羽の矢を北里柴三郎に立てた。
「北里先生、香港は文字通りの戦場です。英国の医師たちすら次々に感染して斃れておる死地へ、あえて自ら赴く必要がどこにありましょうか」
出発の前夜、伝染病研究所の若き門弟であった青山胤通は、荷造りをする柴三郎の身を案じ、悲痛な声をあげた。
「青山、伝染病の流行に国境はない。いま香港で病魔の正体を突き止め、防波堤を築かねば、いずれ我が国の民が全滅することになる。危険を恐れて顕微鏡を捨てるなら、私は何のためにドイツから帰ってきたのだ。命を懸けるべき時は、まさに今だ」
柴三郎は、覚悟に満ちた鋭い眼光で窓外の闇を見据えた。彼は、自らが病に倒れる危険を百も承知の上で、それ以上の大義、すなわち東洋の、そして祖国の無数の命を救うために、黒き死煙の立ち込める海へと渡る決断を下したのである。
二
香港に降り立った調査団を待っていたのは、想像を絶する凄惨な光景であった。凄まじい悪臭が漂う現地病院の天幕には、息絶えた患者の骸が転がり、英国軍の兵士たちがそれを荷車で運び出していた。充分でない資源、剥き出しの感染の脅威、そして言葉の通じぬ異国の地という最悪の制約の中で、柴三郎の戦いは始まった。
さらに最悪なことに、数日遅れて世界最高峰のフランス・パスツール研究所から、気鋭の医師アレクサンドル・イェルサン(Alexandre Yersin)が乗り込んできた。英国当局は、東洋人の柴三郎を軽視し、新参のイェルサンに最新の設備と新鮮な死体の解剖権を優先して与えるという、冷徹な対立構造を突きつけてきた。
柴三郎に与えられたのは、地下の薄暗く不潔な一室と、すでに腐敗の始まった僅かな遺体の組織のみであった。
「道具や環境の不備を言い訳にするな。目を開け、全神経を指先に集中させよ」
柴三郎は怒号のような声をあげ、自らメスを握って死体から検体を切り出した。熱帯の酷暑の中、汗が目に入るのも構わず、凍り付くような集中力で顕微鏡の焦点を合わせる。
明治二十七年(1894年)六月十四日、渡海からわずか数日という驚異的な速さで、柴三郎の視界は、顕微鏡のレンズの向こうに、怪しく蠢く短い桿菌(棒状の菌)の姿を捉えた。
「見つけたぞ……これが黒死病の元凶だ」
それは、世界で初めてペストの原因菌が人類の前に姿を現した、歴史的瞬間であった。柴三郎は、不条理な差別や劣悪な環境という制約を、神業とも言える圧倒的な観察眼と執念で粉砕し、世界医学界にその実力を再び見せつけたのである。
三
十九世紀末のアジアは、欧州列強による植民地支配の波が押し寄せ、まさに地政学的な大変動の最中にあった。香港という東西の貿易の要衝で起きたペストの爆発的流行は、世界の物流を麻痺させ、帝国の興亡に直結する大事件であった。地理的に海の向こうの出来事に見えるこの香港の死闘は、日本の国家主権と近代化の成否を握る、文字通りの最前線であったのである。
柴三郎の発見は、電信によって瞬時に世界中へ打電され、万雷の賞賛を浴びた。遅れて菌を発見したイェルサンも、柴三郎の驚異的な速度の前に脱帽せざるを得なかった。
しかし、この勝利の代償は大きかった。共に現地で調査にあたっていた青山胤通がペストに感染し、生死の境を彷徨ったのである。
柴三郎は、血の気の失せた青年の手を握り締め、己の無力さに歯噛みした。菌を突き止めても、目の前の同志を救えねば何の意味もない。人間の持つ情と業の深さを痛感した柴三郎は、危険を軽減するための防疫の徹底と、後進を育てる組織の必要性をさらに強く意識するようになる。
九死に一生を得た青山とともに帰国した柴三郎は、世界的大英雄として再び祖国の土を踏んだが、その表情に驕りは一切なく、次なる時代を担う若き俊英たちを導くための、新たなる大局的な組織作りの闘争へと身を投じていくのであった。
(第七章へ続く)
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