第五章:福澤諭吉の手
一
明治二十五年(1892年)の秋、世界を揺るがす大発見を引っ提げて帰国した北里柴三郎を待っていたのは、歓迎の拍手ではなく、氷のように冷ややかな沈黙であった。東京帝国大学医学部の重鎮たちは、世界が認めた天才の存在を無視し、研究の場すら与えないという、徹底した排除の論理を貫いた。
「北里、これが今の日本の医学界の現実だ。お前がドイツで華々しい業績を上げれば上げるほど、国内で机を並べていた者たちの嫉妬と保身の火に油を注ぐことになったのだ」
内務省衛生局長として柴三郎を支え続けてきた長与専斎は、省内の一室で苦渋の表情を浮かべた。
「長与先生、私は地位や名誉が欲しいのではありません。顕微鏡が一台と、菌を育てる僅かな部屋があれば良いのです。いまこの瞬間にも、ジフテリアで命を落とす子供たちが日本中にいるというのに、なぜ組織の面目のためにその命を見殺しにせねばならんのですか」
柴三郎は拳を握り締め、無念の涙を堪えた。国家のために尽くすという志を持ちながら、国家の最高学府から爪弾きにされるという、不条理極まる制約。彼は、己の正しさが証明されているにもかかわらず、身動きの取れぬ檻の中に閉じ込められたような、深い絶望の淵に立たされていた。
二
この窮地において、柴三郎の運命を劇的に変える男が動いた。学問のすすめを説き、私立慶應義塾を率いる巨頭、福澤諭吉である。福澤は、世界的な偉人を冷遇する帝大の器の小ささに激怒し、即座に柴三郎を自らの邸宅へと招き入れた。
「北里君、官の学校が君を拒むなら、野の力で道を開けば良いではないか。学問とは官僚の出世道具ではない。国家の民の独立と繁栄のためにこそあるのだ。君の研究は、日本の宝だ。私が全力で支えよう」
福澤の豪快にして温かき言葉は、柴三郎の冷え切った胸中に、再び猛烈な炎を灯した。
福澤は単に言葉で励ますだけでなく、自らの私財を投じ、さらに実業界の重鎮であった森村市左衛門らの協力を取り付けて、東京の芝愛宕町にささやかな土地と建物を確保した。これこそが、日本初の民間伝染病研究所の誕生であった。
帝大という巨大な権威が作り上げた対立の構造を、福澤は「民間発起」という全く異なる大局的な視点から切り崩し、新たな協調の場を創造したのである。柴三郎は、提供された小さな実験室で再び顕微鏡を覗き込み、血清療法の国産化に向けて、遮二無二研究を再開する決断を下した。
三
明治という時代は、官がすべてを主導する強権的な国家体制から、民間の資本や思想が台頭し、真の近代国家へと脱皮を遂げる混迷の過渡期であった。地理的に見れば、首都・東京の中心で起きたこの帝大と民間研究所の精神的対立は、そのまま国家のあり方を巡る巨大な地殻変動と繋がっていたのである。柴三郎は、福澤という至高の理解者を得たことで、単なる一研究者から、民の命を背負って戦う指導者へと成長していった。
しかし、この協調の動きを面白く思わない官僚や、近隣の住民による「伝染病の菌が漏れ出す」という誤解に端を発した激しい反対運動など、困難は次から次へと押し寄せた。
ある夜、研究所の門前に暴徒が押し寄せた際、柴三郎は自ら門前に立ち、鋭い眼光で彼らを睨み据えた。
「私は、あなたがたの命、そしてあなたがたの子供の命を病魔から守るために、ここで命を懸けているのだ。退くわけにはいかん」
その一歩も引かぬ危険への覚悟と、理路整然とした説得は、次第に民衆の不信感を信頼へと変えていった。
周囲の雑音を実力でねじ伏せた柴三郎は、ついに国内での血清療法の製造に成功し、多くの子供たちの命を救い始める。だが、運命は彼に、さらなる過酷にして世界規模の死地への赴きを要求しようとしていた。
(第六章へ続く)
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