第四章:世界を震撼させた奇跡
一
破傷風菌の正体を暴いた北里柴三郎であったが、彼の前にはさらなる難問が立ちはだかっていた。この菌は、自らが生きるために恐るべき「毒素」を放出しており、その毒こそが人間を死に至らしめる元凶であった。菌を殺すだけでは、すでに体内に回った毒を防ぐことはできない。
柴三郎は、研究所の同僚であるエミール・フォン・ベーリングとともに、連日連夜、実験動物の血を凝視し続けた。
「北里、やはり駄目だ。一度毒素を注射された動物は、いかなる薬品を以てしても救えん。我々は、神の領域に触れようとしているのではないか」
ベーリングは頭を抱え、実験室の薄暗がりの中で弱音を吐いた。だが、柴三郎の辞書に「諦める」という文字はなかった。
「ベーリング、人間の身体はそれほど脆くはないはずだ。病に罹りながらも生き延びる者がいるということは、身体の中に毒と戦う『何か』が生まれている証拠ではないか」
柴三郎は、毒素を極めて微量ずつ、段階的に動物の体内に注入する実験を繰り返した。すると、その動物の血液の中に、毒素を完全に打ち消す不思議な物質――「抗体」が造り出されていることを突き止めたのである。さらに、その抗体が含まれた血液の液体成分(血清)を抽出し、他の患獣に注射したところ、たちまちのうちに病が完治した。明治二十三年(1890年)十二月、二人の連名で発表された「動物における白喉および破傷風の免疫法について」という論文は、世界に「血清療法」という人類最強の盾をもたらし、医学の歴史に不滅の金字塔を打ち立てた。
二
この奇跡の治療法の発見は、欧米の列強諸国を激しく震撼させた。当時、子供の命を容赦なく奪っていたジフテリアや、戦場での致死率が極めて高かった破傷風への特効薬が誕生したのである。世界の主要な研究機関や大学は、この東洋の天才を自国に引き留めんと、競うように破格の条件を提示した。
イギリスやアメリカからは、莫大な研究予算と終身教授の地位が約束され、ドイツ政府からも「この地に留まり、プロイセンの医学のために力を尽くせ」と、爵位すら匂わせる誘いが舞い込んだ。
「北里、なぜ断る。これほどの富と名誉、そして最高の研究環境が目の前にあるのだぞ。日本に帰ったところで、お前を待っているのはあの旧態依然とした学閥の冷遇だけではないか」
ベーリングは、全ての招聘を毅然たる態度で辞退していく柴三郎の姿が、どうしても理解できなかった。
柴三郎は、窓の外に広がるベルリンの街並みを静かに見つめ、語気を強めて答えた。
「ベーリング、私の命は私一人のものではない。私がドイツで学べたのは、日本の民が納めた血税のおかげだ。いかに豊かな国で名声を得ようとも、祖国の同胞が病に苦しんでいるのを見過ごし、この技術を独占することは、私の信じる『医の本懐』に悖る」
それは、出世や安泰といった個人の業を完全に捨て去り、国家と民のために己の全生命を捧げるという、柴三郎の峻烈なる死生観が下した決断であった。
三
十九世紀末という時代は、富国強兵を掲げる日本が、欧米列強という巨大な壁にいかにして追いつくかという、国家の存亡を懸けた戦いの最中であった。地理的に西洋から孤立した極東の島国が、真の自立を果たすためには、科学技術の国産化が絶対に不可欠であった。柴三郎が掴み取った血清療法という叡智は、まさに日本という国が世界と対等に渡り合うための、強力な精神的支柱となるべき歴史の必然であった。
明治二十五年(1892年)、三xx(39歳)となった柴三郎は、世界中からの惜別の声に後ろ髪を引かれることなく、横浜港へと帰国した。彼の胸中には、祖国に世界最高峰の伝染病研究所を興し、数万の命を救うという壮大な志が燃え盛っていた。
しかし、日本に降り立った彼を待ち受けていたのは、ベーリングが予言した通りの、冷酷極まる現実であった。かつて彼が批判した東京帝国大学の学閥の重鎮たちは、世界的な大英雄となった柴三郎の帰国を、自らの権威を脅かす最大の脅威として捉え、研究室の提供すら拒むという冷徹な門前払いを決め込んでいたのである。充分な資源も、味方となる組織もない、完全なる孤立無援の戦場が、再び彼の前に広がろうとしていた。
(第五章へ続く)
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