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礼の門

砂と黄金の国を出て、三日。馬車の窓を流れる景色は、灼けた金色から、しっとりと湿った霧の緑へと、ゆっくり変わっていった。

(……ああ、涼しい。涼しいというのは、なんて気高い徳かしら)

ミトは窓を細く開け、霧を含んだ空気を胸いっぱいに吸い込んだ。

(サディラの王に、この空気を一壺、贈ってさしあげたいくらいですわ。壁に水を流すくらいなら、こちらを少し分けてくださればよろしいのに)

漆と序列の国、礼華宮国。古い様式と、厳格な序列を何より重んじる国である。国境で四人は馬車をいったん預け、この国が差し回した漆塗りの楼船に乗り換えた。黒と朱に塗り分けられた船体が霧の立つ大河を遡っていくと、両岸には、反り返った屋根の楼閣が、墨絵のように連なっていた。

船着き場で待っていたのは、隙のない所作で居並ぶ礼官の一団だった。その筆頭が、有無を言わさぬ調子で告げる。

「当国へ入られるには、まず『入門の礼』を修めていただきます。――どうぞ、こちらへ」

それは、一分の隙も許されぬ厳格な手続きだった。舟を降りる足は左から。三歩進んで、一礼。礼の角度は、賓客なれば十五度、礼官であれば二十度。敷石の朱い縁を、決して踏んではならぬ。扇は左手に、要を下に。

(……正気ですの、この国)と、ミトは完璧な微笑みの裏で、げんなりしていた。(門をくぐるだけで、なぜわたくしが試験を受けねばなりませんの。早く宿へ。今度こそ、湯浴みがしたいのですわ)

その隣で、カクとスケは、もっと悲惨だった。

「ス、スケよ、右ではない、左足から降りるのだ!」

「分かっておる、カクよ、だが三歩目で礼を入れると、次が右に――あっ」

スケの草履が、無情にも朱い縁を踏んだ。礼官の一団がいっせいに、咎めるような冷酷な視線を向ける。スケがその場で石像と化した。

ところが――四人のうち、ただひとり、水を得た魚がいた。ロウである。

「左足から、三歩。お相手が礼官筆頭であれば、ここは十八度が古式に適いますね」誰に問われるでもなく、すらすらと完璧に作法を修めていく。扇の角度、口上の抑揚、視線の高さ。そのどれもが、当の礼官たちが目を瞠るほど、寸分の狂いもない。「ああ、なるほど。この国の礼はよく出来ている。形のひとつひとつに、意味と由来がある。……実に、合理的だ」

普段、社交の場では「空気の読めない変人」で通っているこの男が、この国でだけは、誰よりも完璧な常識人だった。その横顔は、心なしか晴れやかですらある。

入門の礼を修める間、筆頭の礼官は、この国の理を誇らしげに語った。「礼華においては、いかなる裁きも、正しき礼式に則って下されねばなりませぬ。逆に申せば――裁きを下す者の側にひとつでも礼式の瑕疵あらば、その裁きは天に通ぜず、無効と帰します。これが千年変わらぬ、我が国の古礼にございます」

ロウの目が、ほんの一瞬、すっと細くなった。彼は何も言わなかった。ただ、その一条を、書物の頁を繰るように、胸の奥へ、静かに畳んで仕舞った。

ようやく門をくぐり、都の大路へ出た、そのとき。前方の広場に、人だかりができていた。円の中心で、ひとりの若い官吏――名をジンといった男が、石畳に額をつけて平伏している。その前に、一段高く設えられた席から見下ろすのは、大礼官ゲン。礼を司る、老いた暴君であった。

聞けば、ジンは数日後に迫った大河の氾濫の兆しを読み取り、堤の補強を上申したのだという。だが、彼が差し出した上申書は、上級官にのみ許された「三つ折り」で畳まれていた。咎は、ただ、それだけ。文の中身は、誰にも読まれなかった。

「身分を弁えぬ無礼。除籍、ならびに流刑とする。――以上」

ゲンの無情な声が響く。ジンの指先は、震えながらも石畳の上で、しきりに「堤の図」の形をなぞっていた。流刑を言い渡されてなお、この男の頭は、民を救うことだけを考えている。

「助けますわよ、ロウ」ミトが静かに言った。

「ええ。ですが……」ロウがゲンを見据えたまま応じる。「あの男は、掟そのもの。サディラのように、頭を下げることで牙を隠すような真似はしない。……来ますよ」

その時、ジンの連行を止めようと、カクとスケが耐えかねて前に飛び出した。「ええい、待て! その不条理な裁き、この紋章が許さねえ!」カクが懐から、漆の箱に入ったヴァルハイト公爵家の紋章器を、これみよがしに高々と掲げた。

「こちらにおわすお方をどなたと心得る! 世界最大級の財閥を束ねるヴァルハイト公爵家がご令嬢、ミトお嬢様なるぞ! そのゲンとかいう老人、直ちに平伏し――」

だが、大礼官ゲンは、鉄の棒のような背筋を、ピクリとも動かさなかった。それどころか、感情を置き忘れたような冷徹な目で紋章を一瞥すると、乾いた声で切り捨てた。

「当国において天に通ずるは、千年の古礼のみ。いかなる他国の公爵家だろうと、礼式に瑕疵あれば、等しく無効。……その不格好な板切れに、我が国の掟を曲げる価値など、一分もございませぬ。下級の従者ども、朱い縁を踏む無作法をこれ以上重ねるなら、即座に捕縛する。お引き取りを」

「な、何だと……!?」

カクとスケの顔から、すうっと血の気が引いた。掲げた紋章器が、霧の空気の中で虚しく静まり返る。これまでは見せるだけで誰もが震え上がった絶対の印籠が、この国では、ただの「木片」として一蹴されたのだ。明確な、物理的敗北だった。

「カク、スケ。そこまでですわ」

ミトの扇がすい、と横に振られ、二人は屈辱に震えながら身を引いた。大礼官ゲンは鼻で笑うことすらなく、ジンの連行を命じて去っていった。

あとに残されたのは、印籠を完全にへし折られた側近二人の、呆然とした静けさだけだった。

「……初めてだな、スケよ。アレが、文字通り塵芥のように扱われたのは」「初めてですな、カクよ……本当に、アレの効かぬ国が……」

二人の手が、懐の紋章器の手前で、所在なく震えていた。だが、ミトの隣に立つ論客の目は、むしろぎらぎらと、鋭い光を放っていた。


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