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花の名前

宴は、ミトが「頂戴いたしますわ」と告げた瞬間から、いっそ不気味なほど華やいだ。宰相は満足げに手を打ち鳴らし、楽の音は高まり、黄金の“花”たちはミトのために設えられた一室へと、しずしずと導かれていく。客が望むより先に、すべてが整っている。あまりに滑らかな段取りだった。

(……隙がないこと。けれど、隙がなさすぎるのも、ひとつの病ですわ。健やかな家はもう少し、慌てるものですもの)

案内された客間は、幾重にも敷かれた絨毯と、吊るされた金の香炉から、甘く重い香が室いっぱいに垂れこめていた。

(また、この匂い。鏡の国の香水といい、この国の香といい――どうして人は、隠したいものがあるときほど、強く焚きしめるのかしらね)

長椅子に腰を下ろし、ミトは扇の陰で、室内へ導かれた七人の娘たちを静かに観察した。いずれも黄金に飾られ、伏し目がちに、人形のように立っている。ロウはいない。彼はいま別室で、宰相を相手に水利の取り決めと交易の条文を一条ずつ崩しにかかっているはずだった。表で相手の誇りを砕くのがミト、その隙間に二度と戻らぬ楔を打つのがロウ。役割は決めてある。残ったのは戸口に控えるカク、ひとり。

「お座りなさいな。ここには、あなた方を“品定め”する目は、もうございませんわ」

ミトが柔らかく声をかけても、娘たちは凍りついたままだった。命じられた“座る”ではなく、許された“座ってよい”をどう扱えばよいのか、その作法を、彼女たちは教わってこなかったのだ。

(……なるほど。鎖は足にではなく、心に掛けてあるのね。逃げぬよう、逃げたいと思わぬよう、躾けてある)

ただ、ひとり。港で視線を交わした列の端の娘が、唇を震わせた。

「……どうか、お戯れはおやめくださいませ。わたくしどもが“役”を忘れたと知れれば、あとで罰せられるのは、わたくしどもにございます」

「お名前は?」とミトは尋ねた。

娘がはっと顔を上げた。問われたことそのものが、よほど意外だったらしい。「……名前、で、ございますか」

「ええ。あなたの。品物には、ございませんでしょう。けれど、人にはございますわ」

長い沈黙のあと、娘はようやく震える声で答えた。「……ナーラ、と」

「ナーラ」ミトはその名を確かめるように繰り返した。「よい名ですこと」

たったそれだけのことで、ナーラの目が潤んだ。名を呼ばれる、ただそれだけのことで。

ぽつり、ぽつりと彼女は語りはじめた。もとは北の小領の生まれであること。家がサディラ王家に負った「水の借財」を返すために、“花”として差し出されたこと。逆らわず、望まれるまま美しくあることだけが、生き延びるための誇りだったと。

「ねえ」とナーラは、戸口に立つカクのほうへ視線を漂わせた。「誠実とは、何なのでしょうね。完璧な“花”であろうと信じて、演じてきた。あなたには……おわかりにならないでしょうけれど」

カクはしばらく答えなかった。それから、いつもの軽口とはまるで違う、低い声で、ぽつりと言った。

「誠実のほうは――木の葉ほどには、軽くなっているのかもしれませんな。この、黄金の国では」

そのとき、戸が開き、ロウが入ってきた。その手にはすでに、いつもの羊皮紙の束が握られている。別室での“仕事”をひとまず終えてきたらしい。ロウはナーラを咎めるでも、慰めるでもなく、淡々と言った。

「自分の役は誠実だったか。あなたはいま、そう問うた。その問いを持てたということが、すでに檻の外へ半歩、足を踏み出しているということです。品物は、自分が誠実かどうかなど問いません。問えるのは、人だけだ」

ナーラが呆然とロウを見上げるなか、ミトがゆっくりと扇を開いた。

「ロウの申すとおりですわ。演じることは罪ではございません。わたくしとて、毎日『公爵令嬢』を演じておりますもの。ただ、ひとつだけ違うのは、わたくしはその役を自分で選びました。あなたは選ばされた。その差は、木の葉より軽くなどございませんわ。決して」

(……ええ。ただ、わたくしの側にだけ扉が開いていた、というだけ。それはわたくしが立派だからではない。ただ、運がよかっただけのこと)

ミトは立ち上がり、ナーラの前に歩み寄った。「ですから、これからの話をいたしましょう。あなた方が、自分で役を選べるようになるための、ね」

ナーラの目から、ひとすじの涙がこぼれた。

だが、そのささやかな崩れを――戸口の外からじっと覗いている者がいた。廊の陰から戻ってきた宰相である。その顔から揉み手の笑みは消え、目だけは笑っていなかった。

賓客は、贈られた“花”を愛でていない。数えている。名を訊き、目を見て、ひとりの人間として、数え直している。それが、ヴァルハイトの「監査」が始まろうとしている合図であることを、用意周到な男は誰よりも早く察知していた。

「……これはこれは」

宰相は再び笑みを貼りつけ、しずしずと室へ入ってきた。声は絹のように滑らかなまま、しかし、その語気には隠しきれない冷気が混じる。

「ご令嬢には、よほど我が国の“花”がお気に召したご様子。ならば、いっそ――明日の大宴にて、王自らがもてなしの“真髄”をお目にかけましょうほどに。我がサディラが誇る完璧な『制度』の美しさを、とくとご覧あれ」

ミトは扇の陰で、静かに微笑んだ。「まあ。向こうから舞台を用意してくださるのね。結構ですわ。ではその大宴で、あなた方の“もてなし”とやらの、いちばん深いところまで、ご一緒に覗いて差し上げます」

宰相が去ったあと、ロウは卓の上に、別室で密かに書き写してきたサディラ王家の財務条約の控えを広げた。

「ミト、仕込みは終わりました。あの宰相は、完璧なもてなしという『制度』で我々の口を塞げると思っている。だが、彼は大きな見落としをしている」

「見落とし、とは?」

ロウは眼鏡の奥の目を冷徹に光らせた。「彼らは、水を握ることで人を支配してきた。しかし、その地下水脈を汲み上げる魔導ポンプの維持資材も、技師の派遣も、交易路の安全も、ことごとくが我がヴァルハイトの『紙』の上に成り立っている。明日の大宴――彼らが完璧な制度を誇ったその瞬間に、その制度の根底にある『法的な前提条件』を、そっくりひっくり返して差し上げます」

黄金の罠がひとつ、口を開けた。しかし、その罠の底で待つもののほうがよほど怯えることになるとは、この夜の宰相は、まだ知らなかった。


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