重荷
長は、ミトの向かいに、静かに腰を下ろした。
そして、慈しむように語りはじめた。
「ミト嬢。あなたは、賽の国を、礼華を、水の都を“正した”とお思いでしょう。けれど、わたしにはこう見える。――あなたは、平穏に眠っていた人々を揺り起こして、恐怖を与えて回った」
穏やかな声だった。怒りも、嘲りもない。むしろ、深い憐れみがこもっていた。
「賽も。凪の家も。礼典も。番付も。あれは病ではありません。**慈悲**です。選ぶという苦しみ。責めを負うという恐怖。それを、人から取り除いて差し上げている。考えてもごらんなさい。決めねばならぬ、間違えれば己のせい、という重荷を毎朝背負って生きる。それがどれほど、人を磨り減らすか」
彼の目が、ミトの背後のゴーシュとナーラを、いたわしげに撫でた。
「あなたは、たった三人にその重荷を負わせた。あの番頭を震えさせた。あの老いた記録方を怯えさせた。あの水夫を、破滅の標的にした。――けれど、枢密院は、幾千万の民がその恐怖を一度も味わわずに済むよう、仕組んでいる。総意が決めてくれる。形が決めてくれる。誰も、己の名で傷つかずに済む」
長は、両手を静かに広げた。
「お訊きします。あなたの“正しさ”と、この“慈悲”と。――どちらが人を、しあわせにするのでしょうね」
* * *
広間が、しんと静まった。
それは、答えづらい刃だった。ミトが三章のあいだ、各地でしてきたこと――人に恐ろしい重荷を負わせること――を、正面から突いていた。
ミトは、扇を膝の上で閉じたまま、長いあいだ黙っていた。
そして、口を開いた。反論ではなかった。
「……ええ」と彼女は静かに言った。「わたくしは、あの三人に、恐ろしい重荷を負わせました」
それだけだった。
言い訳も、正当化もしなかった。「いいえ、あれは善いことでした」とも言わなかった。ただ認めて――そして、また黙った。
長が、わずかに目を細めた。憐れみと、納得の入り混じった目で。お分かりですね、と、その目は言っていた。あなたにも、答えられますまい、と。
ミトは、答えなかった。
ただ、扇を閉じたまま、待っていた。
* * *
その沈黙の底で。
法廷の扉が、また開いた。
入ってきたのは、白髪の年老いた男だった。痩せた肩を丸めて。手が震えている。礼華の、あの記録方。生涯、形の陰でただ帳面を写してきた、目立たぬ男。第二章の終わり、生まれて初めて衆人の前に己の名を晒した、あの老吏だった。
その背後に、もう一人。漆黒の礼服を隙なく着た、治水奉行ジンが、静かに控えた。名乗りはせず。ただ、礼華の声が握り潰されぬよう、その“格”だけを貸して。
老吏は、震える手に、一冊の古い写本を抱えていた。
「……枢密院は」彼は、掠れた声で言った。「〈古礼〉を引いて仰せだ、そうで。古来、形は判断を要さぬ。民はただ、形に従えばよい、と。――ですが」
彼は、写本を開いた。三十年、その手で写してきた、古礼の原文を。
「古礼は、そうは言っておりません。わたしが三十年、写してまいりました。ここに、こう書いてある。『形は、人を活かすため』と。『人を、黙らせるため』とは、どこにも。――学者の解釈では、ございません。わたしが、この手で写した。だから、知っている。それだけを、申し上げにまいりました」
彼は、判事の前に己の名を記した。震える手で、二度目の署名を。歪んで、不格好な、けれど確かな字で。
そして、その老吏の後ろから、また一人。
痩せた、若い水夫が。仮面を脱いで。
「……水の都から、来た」彼は、青ざめた顔で、けれどまっすぐに言った。「リーザの硝子を、贋物だと皆が言った。誰が言い出したのかは、誰も知らないことになっている。だが、おれは見た。あの評は――一つの手が、撒いたんだ。誰かが種を撒いて、皆が写した。おれは、そう見た。おれの名で、そう言う」
彼は、一枚の古い付け札を、卓に置いた。
* * *
ミトの目が、その付け札の隅に留まった。
水の都で読めなかった、あの小さな印。誰の目にも留まらぬ、地味な符牒。墨の、ほんのわずかな撥ねの癖。封の、畳みかた。余白の、隅の小さな点。
そして、ミトの目だけが、見た。
その地味な癖が――この本国で、枢密院が回すおびただしい文書の、その隅々に刻まれている、同じ癖と。寸分たがわず、一致するのを。
法廷の誰も、気づかなかった。長も、眉ひとつ動かさなかった。それは衆目には、何の意味もない、ただの墨の滲みだった。
けれど、ミトには見えた。
(……ああ。水の都の、あの「皆が言っている」は、撒かれたものだった。そして、撒いた手は……ここに繋がっている。「人は元に戻る」のではない。――戻るように、誰かが撒いている)
それは、暴くべき証拠ではなかった。叫べば長を倒せる札でもなかった。叫んでも、誰も信じはしない。ただの墨の滲みなのだから。
それは、ミトの胸に静かに、重く沈んだ。呪いへの答え。けれど答えが分かっても、その撒く手は止まらない。回り続ける。
壇の上で。
氷の老公ヴィンターが、わずかに身を乗り出した。乾いた目が、一度揺れた。それきり、また動かなくなった。
* * *
長は、穏やかなままだった。
老吏の署名にも。水夫の証言にも。何ひとつ動じなかった。彼はただ、慈愛の目でその二人を見て――そして、小さく微笑んだ。
「……ああ。また、おひとり。いえ、おふたり、ですか」と柔らかく言った。「稀な例外というのは、どこにもおりますね。形を嫌う方。名を晒したがる方。――けれど、ねえ。この幾千万の安らかな眠りの前に。それはやはり」
彼は、数える仕草をした。指を二本、三本。
「……数えるほど、ですよ」
ミトは、何も言わなかった。
ただ、扉の外を見た。まだ来ていない者がいる。いちばん弱かった者が。長が「弱き者は名を負えぬ」と断じた、その当の――。
扉は、まだ閉じていた。
長の「数えるほど」という余裕と、ひとり、またひとりと増えていく名々と。その均衡が、どちらへ傾くのか。それは、まだ誰にも見えなかった。




