呼ばれぬ名
本国の宮廷は、ミトが旅に出たときと、何ひとつ変わっていなかった。
磨き抜かれた大理石の床。天井から下がる、黄金の燭台。歴代の王と、枢密院の紋章を織り込んだ、壁の綴れ織り。すべてが、揺るぎなく、豪奢で、冷たかった。
変わったのは、ミトのほうだった。
公爵令嬢の名は、放した。フォン・ヴァルハイトの財も、放した。家紋を刻んだ印籠も、カクとスケがあれほど愛したあの紋章器も、もう手元にない。
彼女は、旅塵に汚れた一枚の外套だけを纏って、その豪奢な広間に、独りで立っていた。手には、ただ使い込んだ扇が一本。
(……いよいよ、ですわね)ミトは静かに、その冷たい広間を見渡した。(名も、財も、印籠もない。あの方と向き合うのに、わたくしが携えてきたのは、たった一つ。――何もしない、という覚悟だけ)
裁定の座を、空ける。それだけを決めて、彼女はここへ来た。
* * *
広間のいちばん高い壇の上に、ひとりの老人が座していた。
氷の老公、ヴィンター。痩せて、白く、年経た目をした大公。かつてミトの裁きを「ひと夏で溶ける氷」と呼び、「人は元の形に戻る」と告げた、あの男だった。
この法廷を開いたのは、彼だった。
「来たか、ヴァルハイトの娘」ヴィンターの声は、乾いて冷たかった。「勘違いするな。お前のために開いたのではない。――わしはただ、見届けたいのだ。お前が各地で“正した”という、その火が。ひと夏で溶けたか、それともまだ灯っておるか。わしの呪いが当たったか、外れたか。それだけのために、この席を設えた」
ミトは、深く頭を下げた。「……ありがとう存じます。理由が、何であれ」
壇の下で、ロウが几帳面に書状を整えていた。
「器は、組めます」彼は、眼鏡の縁に指をやって平坦に言った。「枢密院を、この大公の格の前へ引き出すための法の段取り。それは私が組みます。――ですが、ミト」
彼は、顔を上げた。
「肝心の中身は、私が持っていない。私の法は、枢密院をこの場に座らせることはできる。けれど、座らせた相手を崩すものを、私は持っていない。あれは……法で斬れるものでは、ない」
「ええ」ミトは微笑んだ。「存じておりますわ。中身は、わたくしも持っておりません。――誰も持っていないのかもしれませんわね。今は、まだ」
* * *
控室に下がると、卓の上に、なぜか立派なケーキが一台、置かれていた。
「……これは?」
「宮廷のしきたりだ、そうでしてな」スケが首をかしげた。「大事の前には、客人に菓子を出す、と。お嬢様、いかがです、ひと切れ」
カクが傍らで、何やら指を折って算盤を弾いていた。そして、真っ青になった。
「……お、お嬢様。一つ、申し上げにくいことが」
「なあに、カク」
「この法廷の書状の費え、証人の宿、わしらの食い扶持……ぜんぶ締めますと。――勝っても、わしら、破産でございます。お嬢様がお財産をぜんぶ放されましたゆえ……今夜の宿代すら、あやしゅう」
「……あら」ミトは、ケーキをひと切れ口に運んだ。そしてしみじみと味わって、ひとつ頷いた。(そういえば、そうでしたわね。名も財も放すというのは、こういうこと。――まあ、よろしいわ。お腹が空いては、覚悟も鈍りますもの。いただいておきましょう、最後の贅沢に。……あら、これ、案外けっこうなお味)
「お嬢様が、いちばん肝が据わっておられる」カクが、半泣きでスケに囁いた。「破産の前夜に、ケーキの味の品評をなさっておる」
* * *
その時、控室の扉を、誰かが叩いた。
開けると、廊下に、見覚えのあるすり減った男が立っていた。
ゴーシュ。賽の国の徴税吏。腕に、分厚い徴税の帳簿を、無造作に抱えて。
「……あんた」ミトは、目を見開いた。「どうして、ここに」
「ふん」ゴーシュは、ばつが悪そうに目をそらした。「勘違いするな。あんたに呼ばれて来たわけじゃない。誰にも呼ばれちゃおらん」
彼は、抱えた帳簿をぐいと持ち直した。
「……あの白い館だ。〈凪の家〉。あれが結局、おれの国に根を張った。そして、おれが血ヘド吐いて税を取り立てて、どうにか食わせてきた領民の何人かが、あそこに吸い込まれた。何も欲しがらなくなって、出てこなくなった。おれの帳簿から、名前が消えた」
ゴーシュの、節くれだった指が、帳簿の背を握りしめた。
「枢密院を引き出す場があると、聞いた。なら、おれは――おれの帳簿から名前を消した奴らに、文句を言いに来た。それだけだ。誰のためでもない。おれの、名で、来た」
ミトは、何も言わなかった。ただ、深く頷いた。
そして、そのゴーシュの背後から。
もう一人、静かに進み出る者がいた。
仮面も被らず、装いもなく。けれど、まっすぐに背を伸ばした、若い娘。
「……ナーラ」ミトの声が、わずかに揺れた。
サディラの、人身御供の“花”だった娘。慣わしに縛られ、生贄に差し出されかけ、ロウが水利契約の前提を突いてその古い慣習を廃し、解き放たれた。今は、己の水利の権を手に、自分の足で立っている娘。
ナーラは、多くを語らなかった。ただ、ミトの前に進み、静かに言った。
「あなたが、あたしを解いてくれた。だから、来ました。呼ばれてはいません。――あたしが、来たかったから」
それだけを置いて、彼女はゴーシュの隣に、静かに控えた。
ミトの扇を持つ手が、止まった。
(……呼んでいませんわ。誰一人。なのに)
その先を、彼女は言葉にしなかった。胸の奥に静かな波がひとつ立って、それきり何も確かめずに、扇をそっと閉じた。
* * *
その時。
広間の奥の扉が、音もなく開いた。
入ってきたのは、ひとりの穏やかな顔の男だった。豪奢でもなく、威圧的でもない。むしろ、慈しみに満ちた、聖職者のような静かな佇まい。彼が現れると、宮廷の者たちがいっせいに頭を垂れた。
枢密院の長。
「……ようこそ、おいでくださいました」彼は、柔らかく微笑んだ。ミトに向かって。そして、その背後のゴーシュとナーラに、ちらりと慈愛の目を注いだ。
「あなたが各地で灯してこられた、という火。聞き及んでおりますよ。賽の国、礼華、水の都。立派なことです。けれど」
彼の声は、どこまでも穏やかだった。
「枢密院は、この大陸に安寧を敷いております。誰も、選ぶ苦しみを負わずに済む。誰も、責めを負わずに済む安寧を。――その幾千万の安らかな眠りの前に。あなたの灯した火は……数えるほどのものですよ」
主語は、いつも枢密院だった。総意だった。
「お掛けなさい。お話をいたしましょう。あなたの“正しさ”と、枢密院の“慈悲”と。――どちらが人を、しあわせにするのか」
慈悲の仮面の、その奥は、まだ何も見えなかった。




