写せぬ総意
朝の鐘が、運河を渡っていった。
その鐘を、リーザの組合除名の刻、と街は呼んだ。
広場には人垣ができていた。〈衆目番付〉の前。その中央に、リーザが引き出されている。除名を、衆目の前で申し渡すために。火傷の手を、胸の前で固く握って。
そしてミトが現れると、人垣がどっと彼女のほうへ向き直った。
「ミト様!」「ヴァルハイトのお嬢様!」「どうか、ひと言を! あなた様のあの目で! このリーザの硝子は、本物か贋物か! あなた様がお決めくだされば!」
すがる声が、四方から押し寄せた。たったひと言。「本物よ」。それを言えば、この何百の札がひっくり返る。リーザが救われる。
ミトは、人垣のまんなかに立った。扇を、静かに閉じる。
そしてはっきりと、皆に聞こえるように言った。
「……わたくしは、判じません」
人垣が、ざわめいた。
「リーザの硝子が本物か贋物か。それをわたくしの口から申し上げることは、いたしません。今日も、これからも。――わたくしの目が何を見ようと、それを皆さまは『ヴァルハイト公が本物と言った』という、新しい一枚の札になさるだけ。札が増えるだけ。あなた方はまた、ご自分の目で見ずに済む」
「な、なぜ!」誰かが叫んだ。「あなた様の目が、あれば!」
ミトは答えなかった。代わりに、扇の先を、すいと広場の空いた一画へ向けた。
「判じるのは、わたくしではございません。あなた方ご自身ですわ。――ただし、札を読むのではなく」
* * *
ミトは、人垣の前に、卓をひとつ運ばせた。
そこへ、リーザの杯を含む、いくつかの硝子細工を並べさせる。番付の最上位に置かれた名匠の作。中ほどの、ありふれた作。そして、底に〈贋作〉と貼られた、リーザの杯。――ミトは、そのすべてから札を剥がした。作者の名も、伏せた。どれがどれか、もう誰にもわからない。
そして、その上に、一枚の布をかけた。中が、見えなくなる。
「皆さま」とミトは言った。「この布の下に、手をお入れなさいまし。目ではなく、指で。いちばん『震えるほど見事』と思うた、ただ一点に――この石を、お置きなさい」
カクとスケが、色のない、何の印もない小石を、ひとり一つずつ、群衆へ配っていく。
「ただし」ミトの声が、すっと通った。「お一人ずつ、順にではございません。わたくしが合図をしたら、皆さま、いっせいに。互いの手元は、ご覧にならぬよう」
人垣が、訝しげにどよめいた。
隣で、ロウが低く、ミトにだけ囁いた。「……いっせいに、ですか」
「ええ」ミトも、低く返した。「順に置けば、人は前の石を『写し』ますもの。最初のひとつを見て、次がそれをなぞる。札と、同じ。――けれど、皆が同時なら。写すべき先が、どこにもございません」
ロウの眼鏡の奥が、かすかに光った。「……なるほど。匿名を、匿名で殺すのですか」
「この街がいちばん怖がっていることを、させて差し上げますの」ミトは扇を閉じた。「ご自分の指で、たった独りで、決めることを。――カク、スケ。あなた方が、なすったでしょう。札を捨てて、鼻で、旨い店をお探しになった。あれですわ」
御者台の脇で、カクとスケが、きょとんと顔を見合わせ、それから、にっと笑った。
* * *
「――では。お置きなさい」
ミトの合図とともに、無数の手が、いっせいに布の下へ滑り込んだ。
仮面の下で、誰の目も、もう札を読んではいなかった。読む札が、ない。隣を窺うこともできない。皆が同時に、暗がりの中へ手を入れている。指の腹が、硝子の縁をなぞる。泡の流れを探る。火の入れ方を、手のひらで聴く。
そして、あちこちで、息を呑む音がした。
ひとつの手が、布の下の、ある一点で止まる。離れがたく、そこに留まる。火傷の引き攣れた指でなければ決して刻めぬ、震えるほど繊細な、水の紋様。目には見えぬその仕事が、指先にだけ、まっすぐに届いていた。
最初に、声を漏らした者がいた。
人垣の端の、あの痩せた水夫だった。札ではなく品を見ていて、たった一枚の札を剥がそうとして囲まれた、あの男。彼は布の下に手を入れたまま、誰にともなく、掠れた声で呟いた。
「……これは、本物だ。誰が彫ったかなんて、知らねえ。けど――この指の震えは。嘘を、つけねえ」
名は、名乗らなかった。署名も、しなかった。ただ、自分の手が触れたものを、口にしただけ。
すると、つられたように。「……ああ」と、別の仮面が漏らした。「これだ」と、また別の仮面が。英雄は、ひとりもいなかった。ただ、何十という指が、暗がりの中で、めいめいに、同じ一点へと辿り着いていた。
――が、その囁きの中に、別の棘も混じった。「……あの男だ」「また、あの男が、勝手なことを」。札を剥がそうとして囲まれた、あの日と同じ声が、ふたたび水夫へと向かう。彼は、今度は俯かなかった。けれど、その痩せた背に、新しい棘がいくつも刺さっていくのを、ミトは見ていた。――明日、この街で次に狙われるのは、この男だ、と。
布が、取り払われた。
色のない小石が、いちばん多く積まれていたのは――底に〈贋作〉と貼られていた、リーザの杯だった。
誰のお墨付きでもない。誰かの署名でもない。何十人もの指が、互いを写すことも、札を読むこともできぬまま、おのおの独りで選び取った。――写しようのない、総意だった。
* * *
(……「皆が言っている」は、撒けますのね)ミトは、番付の底の数枚の、読めぬ符牒を、扇の陰でそっと見た。同じ筆の運び。同じ墨の滲み。隅の、同じ小さな印。(けれど、たった今あなた方が指で確かめた総意は、誰にも撒けない。写せませんもの)
「ロウ」と彼女は囁いた。扇の先を、底の古い数枚へ向ける。「この符牒。やはり、辿れまして?」
ロウは、その数枚を検めた。やがて、平坦に言った。
「……札までは。けれど、撒いた顔は、まだ見えません。顔のない群れが、そのまま隠れ蓑だ」彼の声に、めずらしく、かすかな苦さがあった。「ですが――この印そのものは、消えない。同じ手は、同じ癖を残す。いつか、どこかで、また同じ撥ねに出会う」
そのとき、ミトは気づいた。番付の底の、その同じ数枚を――じっと見つめている、もうひとつの視線に。あの痩せた水夫だった。彼もまた、点ではなく、いちばん古い数枚の、その筆跡を見ていた。札を読むのではなく。誰が、最初に書いたのかを。
ミトは、その横顔に、何も言わなかった。ただ、自分と同じものを見ている目が、この街にもう一つあることを、扇の陰から、静かに確かめた。
(……いずれ、またお目にかかる気がいたしますわ。あなたの、その小さな印に)
* * *
引き出されていた、リーザが。
その、自分の杯に積み上がった、名もない小石の山を、見ていた。誰が置いたのかもわからぬ、けれど確かに、何十もの指が選んだ、その山を。
胸の前で固く握りしめていた、火傷の手が、ふっとほどけた。
「……あたしの」リーザの唇が震えた。掠れた、けれどはじめて、芯の通った声だった。「皆が、どう言おうと。これは……あたしの、硝子だ」
* * *
そのとき、人垣が、にわかに沸き立った。
「す、すごい……!」「札など、要らなかったのだ!」「ミト様、これを番付の代わりに! どうか、この『目隠しの品評』を、この街の新しい掟に。あなた様のお墨付きを、いただければ――!」
ミトは、踵を返しかけた足を止めた。けれど、振り向きはしなかった。霧の国で、そうしたように。
「……いいえ。式になさった瞬間、それはまた、札ですわ」
人垣が、しんとなった。
「掟は、あなた方の代わりに、指を入れてはくれません。明日も、明後日も、誰かが新しい嘘を撒くたびに――あなた方ご自分の手を、その都度、暗がりへ入れるしかございませんの。怖いでしょうね、毎度。札に頼れば、楽でしたものね。……ですが、その怖さだけが、写せませんのよ」
ミトは扇を開いた。「では。ごきげんよう」
* * *
ミトは、運河の舟へと歩いた。
番付は、まだ立っている。リーザを呪う札も、まだ大半が残っている。群れが点を読む癖も、ひと晩では消えない。けれど――今日、この広場の何十という指が、いちど、自分の暗がりへ手を入れた。その手応えだけは、誰にも札に書き換えられない。
そして、その底の数枚の、読めぬ符牒は。いまも、そこに、貼られたまま。次にどこで、その同じ手と出会うことになるのか。ミトには、まだわからなかった。
舟が、灰色の運河を滑り出す。
痩せた水夫が、リーザの杯の傍らに、まだ立っている。ミトは、その背を確かめることもせずに、ただ一度だけ、扇の陰で、ごく小さく笑った。
そして、振り返らなかった。




