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同じ手

水の都の朝は、霧と運河の匂いからはじまる。

その朝、報せが来た。

リーザの硝子を買うと言っていた最後の客が、注文を取り下げた。理由はただ一つ、「皆が贋物だと言っているから」。職人組合も、彼女の名を名簿から削る手続きに入ったという。番付の札はひと晩でまた増えていた。〈贋作〉〈恥さらし〉――。

昼前、リーザがミトの宿を訪れた。

火傷の手を震わせて。痩せた背をいっそう丸めて。そして、ミトの前に膝をつきかけた。

「お嬢様。……お願いが、ございます」声が掠れていた。「ひと言でいいんです。皆の前で、『リーザの硝子は本物だ』と。あなたが言ってくだされば、皆、札を書き換えます。あたしはもう……それしか、すがるものがないんです」

ミトは、膝をつきかけたリーザのその火傷の手を、両手でそっと包んで、押しとどめた。

ひと言、だった。ひと言言えば、この目の前で震えている人が救われる。喉まで、出かかった。「ええ、本物よ」と。たったそれだけのことが。

けれど、ミトは言わなかった。

「……ごめんなさい」と彼女は、ほとんど絞り出すように言った。それ以上は、言えなかった。理屈を並べたてて、この人をもう一度突き放すことが、どうしてもできなかったからだ。ただ、その火傷の手を、いつまでも握っていた。

リーザは、その沈黙の意味がわからない、という顔で、ただ涙をこぼした。ミトの胸が、軋んだ。

(……いちばんつらい辛抱ですわ、これは)

* * *

その日の午後。ミトはひとり、扇を手に、広場の〈衆目番付〉の前に立った。

判じるためではない。ただ、見るために。

リーザを贋物と断じた、おびただしい札の群れ。ミトはその一枚一枚を、目だけで丁寧になぞっていった。群れの誰もしないことだった。みな点を読む。誰も字を見ない。

そして、彼女の目が気づいた。

何百という札の、いちばん古い、底のほうの数枚。それだけが――同じ手で書かれていた。

同じ筆の運び。同じ墨の滲み方。同じ撥ねの癖。そして隅に、ごく小さく押された、同じ印。

ほかの何百枚は、その数枚を写したものだった。少しずつ字は違う。けれどみな、その底の数枚をなぞっている。最初に種を撒いた数枚。それを群れが写し、写しが写しを呼んで、いつしか「皆が言っている」になった。

(……ひとつの、手)

ミトはその底の札の、隅の小さな印を見つめた。何かの符牒。けれどそれが何を意味するのか、誰のものなのか、読めなかった。読み解く鍵を、彼女は持っていない。ただ、これが「一人の書き手」を指す印だ、ということだけがわかった。

「……辿れますか」いつのまにか、隣にロウが立っていた。「最初にこれを書いた者を」

「いいえ」ミトは静かに首を振った。「その方は、この数枚を撒いて、あとは何もなさっていない。書き換えたのは群れ。写したのは何百という、本物の人たち。みな心から『皆が言っている』と信じて、写した。種を撒いた手は、もうどこにもいない。逃げたのではないの。はじめから、隠れる必要がなかった。顔のない群れが、そのまま隠れ場所ですもの」

彼女は、その底の数枚の符牒を、目に焼きつけた。意味は読めぬまま。

(……わかったことは、ただ一つ。「皆が言っている」は、作れる。顔のない総意は、誰かが撒くことができる。そして撒いた者は、決して咎を負わない。咎が、群れに溶けるから。――誰かがそれを知っている。この街だけでは、ないのかもしれない)

胸の底で、冷たいものが揺れた。けれどその先は、まだ形を結ばなかった。

* * *

番付の端のほうで。

あの痩せた水夫が、また来ていた。リーザの硝子の、贋作の札の前で足を止めて。彼はそっと手を伸ばし、その札の一枚を、剥がそうとした。

途端、周りの仮面が、ざわと彼を見た。

「……札を剥がす気か」「皆の定めに逆らうのか」「あの男、さてはリーザの回し者だな」――誰の声とも知れぬ囁きが、たちまち彼を取り巻いた。そして早くも、誰かの手が新しい札を書いていた。〈札を剥がす不届き者〉と。彼に向けて。

水夫の手が、止まった。仮面の下で、その目が恐れに揺れる。彼は剥がしかけた手を引っ込め、俯いて、群れの中へ退いていった。

名乗れば、こうなる。群れから逸れた者は、次の標的になる。

ミトはそれを見ていた。追いも、止めもせず。ただ、見ていた。

――けれど。

退いていく水夫のほかにも。その囁きの輪のところどころで、新しい札を書く手に加わらず、ただ口をつぐんでいる仮面が、幾人かいた。逆らいはしない。声も出さない。けれど、写しもしない。群れの同調の、その薄い隙間に、消えずにくすぶっている、小さな火が。

ミトの目だけが、それを見ていた。


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