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顔のない街

運河の街は、相変わらず仮面の下にあった。

水の都、ヴェネツィオ。橋という橋、運河という運河を、色とりどりの仮面をつけた人々が行き交っている。第一幕で、ヴァルハイトの名すら匿名の噂のひとつにしかならず、ミトが「名のない客」となって、目だけで勝った街。

馬車を降りたミトは、懐かしい水の匂いを吸い込み――そしてすぐに、街の様子がおかしいことに気づいた。

広場の中央に、大きな板が立っている。〈衆目番付〉と記されていた。びっしりと、無数の小さな札が貼られている。店の、品の、人の、作の、ありとあらゆるものに点がつけられていた。誰がつけたとも知れぬ、点が。

人々は、その板の前に群がっていた。けれど誰も、品そのものは見ていない。みな、札の点を読んでいる。

「この硝子は二つ星。やめておこう」「あの店は皆が評を下げている。近寄らぬが無難」「あの絵師は札で『時代遅れ』と。ふん、なるほどね」

(……あら)ミトは扇の陰で目を細めた。(誰も、ご自分の目でご覧になっていない。みな札を見ている。「わたくしはこう思う」と仰る方が、ひとりもいらっしゃらない。「皆がこう言っている」しか)

その番付の、いちばん下。乱暴に点の札を幾重にも貼り重ねられた一画があった。

〈贋作〉〈まがいもの〉〈見るに堪えぬ〉――。

その札の群れの奥に、一つの硝子細工が置かれていた。

ミトはそれを見て、足を止めた。

運河の光を、そのひとひらに閉じ込めたような硝子の杯。底に、細やかな水の紋様が彫り込まれている。火傷の引き攣れた指でなければ決して彫れぬ、震えるほど繊細な手仕事。

「……リーザ」

硝子細工の奥の、薄暗い工房に、その人はいた。火傷の重なった手を、膝の上で固く握りしめて。第一幕で、ミトがその目だけで「本物」と見抜いた、あの職人が。今はひどく痩せて、疲れていた。

「……ヴァルハイトの、お嬢様」リーザは力なく笑った。「お久しゅう。けれど、もういいんですよ。ご覧のとおり、あたしの硝子は贋物だ、と。皆がそう言っているんです。誰が言い出したのかは、わかりません。気づいたら札が貼られていて、皆がそれを写した。……皆が言うなら、そうなんでしょう。あたしの目より、皆の目のほうが、確かだ」

* * *

その傍らで、カクとスケが番付を覗き込んで唸っていた。

「……スケよ。この札によると、この街でいちばん旨い店は、ここから三本目の路地の奥の奥らしいぞ。星が五つもついておる」

「ほう、五つ星か。それなら間違いあるまい。行こうではないか、カクよ」

二人は勇んで五つ星の店へ繰り込み――そして、四半刻もせぬうちに、しょぼくれた顔で戻ってきた。

「……スケよ。あれは、いかん」カクが苦い顔で腹をさすった。「気取った味で、ちまちまと小皿ばかり。腹に、たまらん。見てくれと能書きばかりで、中身がすかすかだ」

「五つ星が聞いて呆れるわ」スケも憤然と頷いた。「のう、カクよ。わしらの腹は、まだ唸っとる。――えい、もう札なんぞ知るか。鼻で、探すぞ」

二人は番付に背を向け、湯気と匂いを頼りに、路地裏をずんずん進んでいった。やがて行き着いたのは、番付では〈星ひとつ・まがいもの〉と酷評された、煤けた大衆食堂。けれどその鍋からは、腹の底を直に殴ってくるような、骨太の匂いが立ちのぼっていた。

「……これだ」一口すすったカクが、目を見開いた。「スケよ、これだ! 札はまがいものと言うがな、これこそ本物よ! 札の味じゃない。わしの舌が、そう言うておる!」

「うまいッ!」スケが汁を啜り上げた。「のう、星がいくつ付こうが付くまいが――おれたちの胃袋にだけは、嘘はつけねえや!」

二人は、酷評された食堂を満腹で大いに沸かせ、機嫌よく豪快に笑った。

ミトは、その様子を扇の陰から眺めて、ふっと笑った。

(……あの子たちは、強うございますわね。札がどう言おうと、ご自分の舌だけは、手放さない。自分の口で、噛んで、確かめる。――この街じゅうが忘れてしまった、たったそれだけのことを)

* * *

工房に、ぱらぱらと人が集まりはじめていた。仮面の下から囁きが漏れる。「ヴァルハイト公爵令嬢だ」「あの、何でも見抜く伝説の目の」――。

ひとりの仮面が、すがるように進み出た。

「ミト様! あなた様なら、おわかりのはず。このリーザの硝子は本物ですか、贋物ですか。どうか、あなた様のお口から一言。『本物だ』と。さすれば皆、その札を書き換えます。あなた様のお墨付きがあれば!」

ミトの扇を持つ手が、止まった。

(……お墨付き。つまりわたくしに、新しい点をつけさせたいのね。匿名の札の代わりに「ヴァルハイト公が本物と仰った」という、もっと重い新しい札を。そうすればこの方たちは、またご自分の目で見ずに済む。札が、わたくしに変わるだけ)

ミトはすぐには答えなかった。扇をゆっくりと閉じた。

「……わたくしのひと言で、皆さまが札を書き換える。それは、リーザの硝子を救うことには、なりませんわ」

仮面たちが、きょとんと首をかしげた。なぜ、と。その問いには答えず、ミトはただ口をつぐんだ。

* * *

「……ロウ」ミトは隣の婚約者に囁いた。「この『贋作』の札。いちばん最初に貼った者を、辿れまして?」

ロウはしばらく、番付の札を検めていた。やがて眼鏡の縁に指をやって、平坦に言った。

「……その者の、顔まではね。無理ですね」

「あら」

「最初に貼った札は、もう何百という写しに紛れている。どれが種で、どれが写しか、札そのものは追えるかもしれない。けれど、その種を貼った手の持ち主が、どの仮面の下にいるのか。それは辿れません。顔のない群れが、そのまま隠れ蓑になっている。**訴える相手の顔が、存在しないのです。**『皆が言っている』の、その『皆』を、被告席に座らせることはできません」

彼は番付を見上げた。その平坦な声に、めずらしく、かすかな苦さがあった。

「剣なら、斬る相手の顔がある。毒なら、盛った者の顔がある。紙の刃にも、署名はありました。ですがこれは、誰の顔も見えない。……生まれて初めてです。斬る相手の顔がない、訴えは」

* * *

その時。ミトの目が、ふと、群衆のいちばん端で止まった。

番付に群がる人垣の、その外れ。仮面をつけた、痩せた若い水夫らしき男がひとり。彼は番付の札を見ていなかった。札を素通りして、リーザの、贋作と貼られた硝子の杯を、ただじっと見ていた。点ではなく。硝子そのものを。

その仮面の奥の目が、何かを言いたげに揺れて。けれど何も言わずに、伏せられた。彼はそっと、人垣を離れていった。

そしてよく目を凝らせば、その男だけではなかった。番付の前で、ふと札ではなく品のほうへ目を遣り、けれどすぐに口をつぐむ仮面が、群衆のところどころに、ほんの幾人か。声には、誰も出さない。みなすぐにまた、札の点へと目を戻していく。

ミトは、そのごく僅かな沈黙の揺らぎを、扇の陰からじっと見ていた。

顔のない街。けれどその顔のなさの底に、何かまだ名づけられていないものが、ひそやかに息をしていた。


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