表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
28/34

名を、賭ける

空が、低く垂れこめていた。

霧の国のその霧が、いつのまにか雨の匂いに変わっている。広間の高窓の向こうで、雲が墨を流したように厚く重く滞っていた。

堤の見張りから、報せが駆け込んでくる。ひび割れがまた伸びた。北の継ぎ目から、水が滲みはじめた。雨が本降りになれば、保って二日。

治水奉行の座は、まだ空のままだった。

「お、お嬢様」スケがたまらず声を潜めて、ミトの袖を引いた。「もう悠長なことを言うておる場合では。お嬢様がここはひとつ、あのジンとやらを奉行に、とビシッと……」カクの手が、つられて懐の漆の箱へ伸びかける。

「およしなさい」ミトの扇が、すいと二人の手を押し戻した。「……いちばん簡単な手は、たいていいちばんいけない手ですのよ」

(……それにしても)ミトは垂れこめた空を恨めしげに見上げた。(よりにもよって、雨。ようやくあの白い砂を払えたと思いましたのに。湯浴みの前に、今度は泥ですか。世界は本当に、わたくしの肌に恨みでもございますの)

* * *

高座の下に居並ぶ官吏たちの目が、いつしかみなミトに注がれていた。

ひとりの上席が進み出て、深々と頭を垂れた。

「ヴァルハイト公爵令嬢、ミト様。……どうか、あなた様のご威光をもってお命じくださいませ。『ジンを奉行とせよ』と。さすれば我ら一同、ヴァルハイト公のご下命とあらばと、従う口実が立ちまする」

口実。その一語に、ミトの胸の奥が冷えた。

(……従う口実。つまりわたくしに決めさせたいのね。そうすれば堤が決壊しても『公爵令嬢がお決めになったこと』。誰も己の咎にはならない。そしてわたくしは、この方たちの新しい出目になる)

ミトは、扇を閉じた。

「いいえ」と彼女は静かに言った。「わたくしは命じません」

広間が、ざわと揺れた。

「この国の治水奉行を。この国の堤を誰に託すかを。よその国の令嬢が威光で決めてよいはずがございません。それをやれば、わたくしはあなた方の新しい出目になるだけ。わたくしが去った翌日、あなた方はまた、新しい誰かの一言を待つ」

彼女は広間の中央の、空いた奉行の座をまっすぐに見た。

「その座は空いております。儀は済んだ。あとはこの国のどなたかが、ご自分の名でその座に就くだけ。わたくしは待ちます。それまで何も申しません」

そうして、ミトは口をつぐんだ。

長い沈黙が、広間に落ちた。

雨の匂いが濃くなる。誰も動かなかった。官吏たちは俯いた。奉行になれば、堤が崩れたその日、責めはその者ひとりの首に降りかかる。隠れる規則はもうない。便利な出目も、たった今、自ら引っ込んだ。

ゲンの口元に、かすかな影がよぎった。それ見たことか、と言いたげな。

* * *

その沈黙の底から、ひとつの足音が進み出た。

ジンだった。まだ罪人として、両脇を捉えられたままの。彼は捉えていた手を静かに振りほどいた。誰も止めなかった。止める作法も、なかったからだ。

彼は奉行の座の前まで歩み、そこに置かれた補任の名簿を見下ろした。

「……わたしが就く」

その声は熱くなかった。むしろひどく静かで、青ざめていた。第一幕で流刑を言い渡されてなお、堤の図を石畳になぞった、あの燃える男の声とは別のものだった。

「奉行となる。この名簿にわたしの名を書く。堤が保たねば、わたしはこの名簿のせいで吊られる。誰のせいにもできぬ。規則の陰にも隠れられぬ。わたしひとりの、名だ」

彼の指が筆を取った。堤の図を幾度もなぞってきた指だった。その指で、彼は自分の名を一画ずつ名簿に刻んだ。

だが、ジンが筆を置いても、名簿はまだ半分が白いままだった。

補任には、証人の名が要る。確かにこの者を奉行に任じた、と己の名で記録する者が。それなくしては、この補任は後の世にいくらでも不当と覆される。

誰も、その筆を取ろうとしなかった。

証人の名を書けば、その者もまた共犯となる。堤が崩れれば、ジンとともに咎を負う。官吏たちはまた俯いた。さっきと同じ沈黙が戻ってくる。

その時。

広間のいちばん隅から、白髪の年老いた記録方がひとり、よろよろと進み出た。誰の目にも、長年留まったことのない男だった。生涯、形の陰で帳面の隅に、ただ記すだけを務めてきた、目立たぬ、影のような男。

彼の手が、筆を取った。

その筆先が震えていた。墨が穂先で揺れ、ぽたりと一滴、名簿の余白に落ちる。彼はその染みを見つめ、それから奥歯を噛みしめて、震える手を押さえつけるように、もう一方の手で己の手首を握った。

そうしてその老いた手が、生まれて初めて衆人の前で己の名を、証人の名を、名簿に記した。

ひと文字、ひと文字。震えて、歪んで、ひどく不格好な字だった。

* * *

二つの名が、揃った。

ミトはゆっくりと、奉行の座の前へ歩み寄った。ゲンには目もくれず。勝ったとも言わず。ただ青ざめたジンと、震える老吏の、その二人の前に立って、書かれたばかりの二つの名を見下ろした。

「……この堤は、もう」と彼女はそっと言った。「よその誰のものでも、千年の形のものでもございません。お二人が、ご自分の名をお書きになった。それだけで、この堤はもう――あなた方のものに、なりましたのよ」

老吏の、皺の刻まれた目から、涙がひとすじこぼれた。

高座のゲンが、長いあいだ、その二つの名を見ていた。

その枯れた顔は綻ばなかった。形が誤っていた、とも言わなかった。彼はただ、ふんと鼻から息を抜いた。

「……一人、いや、二人、名を賭けたか」ゲンの声は相変わらず揺らがなかった。「ふん。堤が保てば、わしの負けよ。保たねば、その二人が吊られる。それだけのことだ」

不改心のまま。けれどその揺らがぬ声に、ほんのひとすじ、さっきまではなかったひびがあった。

* * *

ぽつ、と。高窓を雨粒が叩いた。一滴。二滴。そして堰を切ったように。

雨だった。本降りの。

ジンが弾かれたように名簿を抱え、堤の方角へ駆け出した。震える老吏も、人足たちも、官吏たちも、つられて雨の中へ。凍りついていた礼華が、泥の中でようやく動きはじめる。

ミトは、その背中を見送って――そして、踵を返した。

けれど今度は、立ち去る前に、後ろの二人を振り返った。

「カク。スケ」

「は、はい!」

「あなた方は、残りなさい」ミトは静かに言った。「印籠は、箱の中。掲げるのではなく、その腕を、泥に貸しておあげなさい。あなた方の本当の中身は、第一幕のあの堤で、もう知れておりますもの」

カクとスケの顔が、ぱっと輝いた。

「お、おうよ! 任せてくだせえ!」「印籠なしの、ただのカクとスケで! ひと働きしてめえりやす!」

二人は腕をまくり、濁流のような人波へ飛び込んでいった。ただし、誰にも命じなかった。すでに自分の足で駆け出した者たちの、その背を押しただけだった。

* * *

「ミ、ミト様!」上席の官吏が、慌てて追いすがった。「どちらへ! どうか、堤が保つまでお留まりくださいませ! あなた様が見届けてくださるなら、我らも安んじて……!」

ミトは足を止めた。けれど、振り向きはしなかった。

「……いいえ」

任命を断った時と、寸分変わらぬ静けさだった。

「わたくしが留まって見届ければ、あなた方はまたわたくしを見上げる。堤が保ったのは、ヴァルハイト公が見ていてくださったから、と。それでは、せっかく賭けた名が台無しですわ。あの堤はもう、あなた方のもの。保たせるのもあなた方。わたくしは、保証人にもなりません」

彼女は扇を開いた。

「では。ごきげんよう」

馬車が、雨の街道を、霧の国の外へと走り出す。

「……見届けずに、よろしいので」向かいの席で、ロウが静かに問うた。

「いいえ。ちっともよろしくありませんわ」ミトは流れる雨の窓に頬杖をついた。「置いてきた火が消えるか、燃え続けるか。それを見ずに去るのは、この旅でいちばんこわいことですもの。……ロウ。お手を、握っていてくださいまし」

ロウは何も言わず、その手を握った。

雨の礼華が、灰色の霧の向こうへ遠ざかっていく。ミトは最後まで、振り向かなかった。

* * *

――そして、ミトの去った礼華で。

夜の堤は、戦場だった。

雨は夜半に最も激しくなり、大河は腹を膨らませて、北の継ぎ目に容赦なく牙を立てた。松明が雨に潰され、泥が足を呑み、人の声は濁流に攫われていく。

その先頭に、ジンがいた。

奉行となった男は、命じなかった。ただ、いちばん危うい北の継ぎ目に、誰よりも先に肩から飛び込んだ。名簿に名を書いた手で、土嚢を抱え、杭を打ち、水を睨んだ。彼の背を見て、官吏たちが、漆黒の礼服を泥に沈めて続いた。生まれて初めて、形ではなく、水と向き合って。

あの老いた記録方も、いた。痩せた腕には土嚢ひとつがやっとだった。何度も泥に膝をつき、そのたびに、誰かが引き起こした。証人の名を書いたその手が、今はただ、泥にまみれていた。

そして、その濁流のいちばん深いところで。

「おうい、土嚢はこっちだ、もっと運べェ!」「形式も前例も、水にゃ効かんぞ、手を動かせい!」

泥まみれのカクとスケが、野太い声を張り上げていた。元兵士と元馬喰の、箱の外の本当の腕が、混沌とした現場を秒単位で束ねていく。誰も、ヴァルハイトの名など知らなかった。ただ、その泥だらけの二人の差配だけが、確かだった。

夜が、明けかけた。

雨が、ふと弱まった。

膨れ上がった濁流が、北の継ぎ目に、最後の、いちばん重い一撃を叩きつけ――そして、堤は、保った。

水は行き場を失い、ジンの図のとおり、安全な遊水地へと静かに引いていく。

誰も、喝采を上げなかった。みな泥の中にへたり込み、ただ、白みはじめた空を見上げて、肩で息をしていた。勝った、という顔ではなかった。生き延びた、という顔だった。

高い大礼殿の窓から、大礼官ゲンが、その泥まみれの夜明けを見下ろしていた。

彼は長いあいだ、保った堤を見ていた。それから、ふんと、鼻から息を抜いた。

「……保ったか」枯れた声だった。誰に言うでもなく。「わしの、負けよ」

その背筋は、相変わらず鉄の棒のようにまっすぐだった。改心も、詫びもなかった。ただ、千年で初めて、この国の形ではないものが、この国を救ったのを、彼はその目で見届けた。

* * *

雨が上がって、三日。

街道を行くミトの馬車に、後ろから、どろどろの二つの影が追いついてきた。

カクとスケだった。泥は乾いて鎧のようにこびりつき、目だけがらんらんと輝いている。二人は馬車の窓に取りつくと、競うように叫んだ。

「お嬢様! 堤は……堤は、保ちましたぜ!」「あのジンとやら、それに、よぼよぼの記録方の爺さままで、泥に這いつくばって……! 保ったんでさあ!」

ミトは、窓の外の二人を、しばらく黙って見ていた。

それから、扇をそっと開いた。半分、顔を隠すように。

(……溶けません、でしたわね。今度は)

扇の陰で、誰にも見えぬよう、彼女はほんの少しだけ笑った。氷の老公の呪いに、初めてひとつだけ、答えが返せた。けれどその答えは、彼女が出したものではない。名を書いた二人と、泥にまみれたこの二人が、出したものだった。だからミトは、それを誇らなかった。ただ、扇の陰でこっそりと、誇らしかった。

「……ご苦労さまでした」とだけ、彼女は言った。「お二人とも、湯浴みが要りますわね。次の宿で、いちばん大きな盥を借りて差し上げます」

「「へへっ」」

馬車は、晴れた街道を、次の水の都へと進んでいく。

ミトは、一度だけ、来た道を振り返った。霧の国は、もう見えなかった。けれどその霧の底で、今ごろ、保った堤の上を、奉行となった男が歩いているはずだった。誰の保証も、誰の威光もなく。ただ、自分の名の上を。

それで、よかった。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ