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最速の礼

夜が明けた。

礼華宮国の客間に通されたロウは、ひと晩、一睡もしていなかった。床は開かれた巻物で足の踏み場もない。礼典三千条。その最後の一巻を、彼は明け方の薄明かりのなかで静かに閉じた。

「……読み終えました」

カクとスケが、寝ぼけ眼でげっそりと、その有様を見渡した。

「お、おいスケよ。ロウの旦那、あの量をひと晩で。巻物に埋もれて死んどるのかと思うたぞ」

「カクよ。それより見ろ、あの顔を。……旦那、なんだか楽しそうじゃないか」

事実、ロウの眼鏡の奥は、この旅で誰も見たことがないほど生き生きと輝いていた。

(……まあ)長椅子で目を覚ましたミトが、その横顔を扇の陰からそっと窺った。(ロウが、あんなに。三千の堅苦しい規則に埋もれて、あんなに満ち足りたお顔をなさるなんて。……ほんの少し妬けますわね。わたくしのことは、いつもそんなお顔では見てくださいませんのに)

「ミト」ロウが巻物の山からすっと立ち上がった。「行きましょう。広間でお見せします。千年で、いちばん速い礼を」

* * *

広間には、ふたたび漆黒の官吏たちが彫像のように居並んでいた。高座には大礼官ゲン。引き据えられたままのジン。

ロウは広間の中央へ進み出ると、ゲンに向かって深々と一礼した。

「大礼官どの。昨夜、礼典三千条、すべて検めました。そしてひとつ確かめました。治水奉行補任の儀、全四十七段。これを執り行うのに要する日数について、礼典はただの一条も定めておりません」

ゲンの枯れた目が、すっと細くなった。

「日取りを次の祭礼まで待て、とも。儀と儀の間に幾月を置け、とも。どこにも書かれていない。あなた方が千年、そうしてきただけ。慣いと規則を、取り違えていらっしゃる」

ロウは懐から、几帳面に折り畳んだ覚書を取り出した。

「ですので。今からわたくしが、四十七段すべてを一条も違えず執り行います。ただし、最速で」

そして、始まった。

「第一段。補任の奏上。東に三歩、北を向き、笏を額の高さに。――済」ロウの体が、寸分の狂いもなく、しかし目にも止まらぬ速さで動いた。「第二段。香を三度。一、二、三。――済。第三段。祝詞、四十八句。略さず」

彼の口から、四十八句の祝詞が、機械が紙を吐き出すように一定の速度で、淀みなく流れ出た。息継ぎの位置すら規定どおり。一音も誤らない。

「――済。第四段」

御者台の脇で、カクとスケが口をあんぐりと開けていた。

「……ス、スケよ」カクが掠れた声で囁く。「旦那が壊れた。あれはもう、人間のお辞儀じゃ、ないぞ」

「カクよ。わし、いま心のなかで一緒に数えとったんだが、第八段で追いつけんようになった。あれはお辞儀の皮を被った、なにか別のものだ」

官吏たちの顔が、みるみる強張っていった。

それは人の所作ではなかった。一切の感情も、緩急も、美しさも削ぎ落とした、純粋な正しさだけが、ありえない速度で執行されていく。第十段。第二十段。儀の進行役も、立会人も、記録官も、ロウはただ一人で役を瞬時に入れ替わりながらこなしていく。

(……ロウ)ミトは扇で半ば顔を隠した。(あなたのその完璧なお作法、美しさのかけらもなくて。……いっそ怖うございますわよ。御覧なさい、お歴々が皆、後ずさっていらっしゃるじゃありませんの)

「ロ、ロウどの……! お待ちを、そのようなせわしないやり方は……!」官吏のひとりが、たまらず声を上げた。

ロウの手は止まらなかった。

「どの条に抵触いたしますか」彼は執行を続けながら平坦に問い返した。「お示しいただければ、即座に改めます。『速さを禁ずる』条を。三千のどこかに」

官吏は口を開き、そして閉じた。

そんな条は、どこにもなかった。

「ございませんね」ロウは淡々と続けた。「速度の規定はない。ゆえに最速で最適化いたしました。第四十七段。補任、奏上、完了。――済」

しんと、広間が静まり返った。

茶を一服する間にも満たぬ時間で。千年、誰も動かせなかった補任の儀が、たった今、一条も破られぬまま完了していた。

「……スケよ」カクがぽつりと言った。「わしらの印籠は、ドカンと出して人を平伏させる。旦那のあれは、平伏する形で相手を追い詰めとる。……同じ頭の下げ方で、どうしてああもおそろしいのかのう」

* * *

「形は、整いました」ロウは覚書を畳み、顔を上げた。「治水奉行の座は今この瞬間、空いております。儀は済んだ。あとはどなたがその座に就くか、お決めになるだけ」

そして、彼は待った。

誰も動かなかった。

さっきまで「手続きが」「前例が」と唱えていた官吏たちが、今度はただ俯いた。形はもう言い訳にならない。儀は済んでしまった。あとは誰かが名乗り出るだけ。けれど奉行になれば、堤が決壊したその日、責めはすべてその者ひとりに降りかかる。隠れる規則は、もうどこにもない。

誰ひとり、顔を上げなかった。

高座のゲンが、ゆっくりと口を開いた。

その声には怒りも悔しさもなかった。ただ深い、見透かしたような静けさがあった。

「……見事な芸であった、タハライトの。千年の形を片手でもてあそんでみせた」ゲンは痩せた指を組んだ。「だがな。お前は何ひとつ救ってはおらぬ。お前が示したのは、形が速く動けるということ。ただそれだけ。この国が動かぬ真のわけは、形ではない。誰も己の名を賭けたくないのだ。お前はその蓋を開けてみせた。それだけよ」

ゲンの目が、まっすぐにミトを射た。

「よそ者よ。お前たちが去れば、この国はまた凍る。新しい遅延の条を、官吏どもがせっせと書き足してな。お前のその鮮やかな手際こそ、ひと夏で溶ける氷よ」

ミトの扇を持つ手が、止まった。

ひと夏で溶ける氷。氷の老公のあの呪いが、海をいくつも越えたこの霧の国で、別の声を借りて、もう一度彼女の胸を貫いた。

(……そう。ロウがどれほど鮮やかに形を片づけてみせても。この国の誰かが、自分の名を堤に賭けないかぎり。わたくしたちが去った翌日、この広間はまた凍る)

ミトはゆっくりと広間を見渡した。俯く官吏たち。高座の揺るがぬ老人。そしてその隅で、なお引き据えられたまま、燃えるような目で堤の方角を睨んでいる、ひとりの男を。

ジンを。

凍りついた礼華に、ロウがひとすじの最速の風を通した。けれど、その風を受けて自らの帆を上げる者がいなければ、船は動かない。


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