形の牢
霧の国は、相変わらず霧のなかにあった。
礼華宮国。漆塗りの回廊が、白い霧の奥へどこまでも整然と続いている。第一幕で印籠も書類も歯が立たず、最後は泥にまみれて堤を築いた、あの千年の形式の国。馬車を降りたミトは懐かしさに目を細め――そしてすぐに、違和感に気づいた。
静かすぎる。
人は、いる。回廊にも門にも、おびただしい数の官吏が漆黒の礼服を寸分の乱れもなく着こなして居並んでいる。けれど誰も動かない。誰も一歩も。みな手にした巻物にひたと目を落としたまま、彫像のように固まっていた。
「……スケよ」御者台のカクが声を潜めた。「賽の国は、にこにこして動かんかった。ここは、しかめ面で動かんぞ」
「カクよ。どっちが、ましなんだろうな」
門の前で、ひとりの若い官吏がミトたちを認めて、さっと青ざめた。彼は震える手で巻物を繰り、また繰り、汗を浮かべて隣の同僚と何事か囁き交わす。
「……あの」やがて消え入りそうな声で、彼は言った。「公爵令嬢様の、再びのご来訪。その作法が礼典のどの条にもございませんで。前例が、ないのです。お迎えしてよいものか、お止めすべきか。定めのないものは、わたくしどもには動けませぬ。どうか、しばしお待ちを。……いつまでとは、申せませんが」
(……あら)ミトは扇の陰でそっと息を呑んだ。(賽の国の、決められぬ農夫たちと同じ顔。けれどあちらは、賽を失った素朴さ。こちらは三千の規則をすべて持っていて、なお動けない)
向かいで、ロウがゆっくりと回廊を見渡していた。その眼鏡の奥が、めずらしくかすかに輝いている。
「……変わりましたね」彼は平坦に、しかしどこか感慨深げに言った。「第一幕のこの国は、形に厳しくとも、形を以て動いていた。今は違う。形を完璧に守ることが、そのまま動かぬための口実になっている。誰も、何も決めない。『規則がそう定めている』。それさえ唱えれば、何が起ころうと己の咎にはならぬのですから」
(規則が決めてくれる。だからわたくしは責められない)ミトの胸に、あの白い館の凪がよぎった。(……これはシメオンと同じ病。賽の出目の代わりに、千年の規則に決定を外注している。礼典という名の、新しい賽ですわ)
* * *
その時、回廊の奥から怒声が響いた。形式の国には似つかわしくない、生身の声。
「だから間に合わぬと申しておる! あなた方の崇める手続きを待っていたら、堤が、保たぬのだ!」
ミトは、その声を知っていた。
ジン。第一幕で流刑を言い渡されてなお、冷たい石畳に堤の図をなぞり続けた、あの実務の男。ミトたちが泥のなかから掬い上げた、礼華の良心。彼は今、十数人の上級官吏に取り囲まれ、両腕を捉えられて広間の中央に引き据えられていた。
事情は、すぐに知れた。
第一幕で補強した、あの堤。雨期を前にひび割れが見つかり、緊急の再補修が要る。だが補修を差配する治水奉行の座が、空いたままだった。任命するには奉行補任の儀を行わねばならず、その儀を開くにはまた別の儀を経ねばならず、その連なりのいちばん最初の決裁を、誰も下そうとしない。改革派を奉行に据えれば波風が立つ。据えねば堤が危うい。ならば何もせぬのが、いちばん咎が少ない。誰も責められない。
そうして礼華は、誰ひとり間違えぬまま、来たる雨期に、正しく溺れようとしていた。
それを大声で訴えたジンは、広間の礼を乱し規律を紊した者として、非の打ちどころのない手続きで、二度目の追放にかけられようとしている。千年の規則が、国を救おうとする唯一の男を、これ以上なく正しく葬ろうとしていた。
* * *
広間のいちばん高い座に、ひとりの老人が座していた。
大礼官ゲン。第一幕で千年の形そのものとしてミトたちの前に立ち塞がり、そして実質に敗れた、あの男。彼は今、形式を恐れる官吏たちによって、ふたたび最高の権威の座へと祭り上げられていた。痩せた背をまっすぐに伸ばし、微動だにしない。
「ジンよ」ゲンの声は枯れて、しかし揺らがなかった。「お前はまた、形を破れと言う。一度形を破れば、次は誰が、どの規則を破ってよいと決めるのだ。形だけが、力なき者を、力ある者の気まぐれから守る、ただ一つの壁。お前の言う実質とは結局、力ある者が『今回だけは特別だ』と言い張る口実にすぎぬ」
ミトは、その言葉にすぐには言い返せなかった。
(……この御方の仰ること、間違っていませんわ。少なくとも、半分は。だからこそ厄介)
* * *
しんとした広間に、こつ、と靴音がひとつ響いた。
ロウだった。彼は居並ぶ官吏の前へ静かに進み出ると、ゲンに向かって礼典の作法にのっとり、寸分の隙もなく深々と頭を垂れた。第百四十二条。貴人に拝謁する際、左足を十五度開き、一拍置いて上体を倒す。完璧だった。
「大礼官どの。仰せ、ごもっとも」ロウは頭を上げ、平坦に言った。「形を破るべきではない。一条たりとも。ですのでわたくしは、提案いたします。形をただの一条も破らずに、この堤を救うことを」
ゲンの眉が、わずかに動いた。
「礼典三千条。その全文の写しを、お貸し願えますか」ロウの眼鏡の奥が、はっきりと輝いた。水を得た魚の目だった。「ひと晩で読みます。そして明日お見せしましょう。あなた方が千年、規則の陰に隠してきたその遅さが、規則のどこにも書かれてなどいない、ということを」
霧の国の凍りついた広間に、久方ぶりに、何かが動きはじめる気配がした。




